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ジェームズ・スターリング チャールズ・レニー・マッキントッシュ エドウィン・ラッチェンス卿 ジョン・ソーン卿 ニコラス・ホークスムーア
Sir James Stirling ・ Chrles Rennie Mackintosh ・ Sir Edwin Lutyens ・ Sir John Soane ・ Nicholas Hawksmoor

英国の5人の建築家 Five British Architects

1972年の夏、英国に渡り、インタヴューに次ぐインタヴューを経て、やっと年末から ハウエル・キリック・パートリッジ・アンド・エイミス・アーキテクツ、通称HKPAで働き始めた。
当初はただひたすら ジェームズ・スターリングに象徴される何か新しいことを期待して、英国に行ったので、英国の歴史上の建築についてはあまり知らなかったが、 仕事に慣れて余裕ができ、 周りも見えるようになってくると、現代建築よりもだんだんと昔の建築に興味が移っていって、 日本にいる時は知らなかった英国ならではのユニークな建築家たちと、その建築の面白さを知るようになった。
最初は、元々興味のあったグラスゴー美術学校のマッキントッシュから始まって、リンカーンズ・イン・フィールズにある ソーン美術館のジョン・ソーン、クライスト・チャーチのホークスムーア、そしてラッチェンスの住宅へと興味が広がっていった。
この4人の建築家たちはみな、奇しくも17、18、19世紀の半ば過ぎに生まれ、世紀の変り目をはさんで活躍し、 次の世紀の半ば前に亡くなっている。



マッキントッシュとラッチェンスの2人は同時代の人で、 ソーンが彼らより1世紀遡り、 ホークスムーアはさらにもう1世紀遡った時期に活躍している。
マッキントッシュ、ラッチェンス、ソーン、ホークスムーアは、 その生きた時代背景に強く影響を受け、そのコンテクストの内にいながら、且つその影響の中から最も個人的で、 独創的なスタイルを発展させ、それぞれの時代の枠を大きく超えた建築家たちだ。
時代は隔たっていても、彼らに共通しているのは、建築の形態のゲームを楽しむ柔らかい知的な姿勢であり、 内に秘めたエクセントリシティで、その建築は今も特別な光を放っている。

英国の4人の建築家について、1976年〜2006年に 発表した記事を、再録し、加筆、編集、そしてさらに英国へ行きたいと思う切っ掛けになったジェームズ・スターリングについて、 新たに書き加えた。

-建築家の肖像をクリックするとその建築家の項にジャンプします。-

グラスゴー美術学校 ディーナリー・ガーデン イングランド銀行 ウールノス
GSA, Mackintosh ・ Deanery Garden, Lutyens ・ England Bank Tivoli corner, Soane ・ St Mary Woolnoth, Hawksmoor


ジェームズ・スターリングが日本に来たとき、シンポジウムのあとのパーティーでの質問に答えて、 英国建築の特性を“エクセントリシティ”という言葉で要約したことがあった。
彼が想定している建築家は、RIBAのゴールド・メダル授賞式で、影響を受けたと言明している、 ヴァンブラ、ホークスムーア、ソーン、そしてマッキントッシュ等 、最も英国的な建築家たちだろう。スターリングのリストにはない、ラッチェンスも、ここに当然含めたいところだ。

たとえばホークスムーアのスピトルフィールズのクライストチャーチ。(下図左)この教会は、ロンドンの他の教会のスケールを 完全に超越し、常識的な比例感覚を狂わせる、誇大妄想狂的ファサードをしている。そして 歴史的先例の形態モチーフが、まったく独特の組み合わせで一つになっている。 巨大なヴェネツィアン・ウインドウやゴシックの尖塔を引用する、スターリングの言うアドホックなテクニック。
あるいはまたジョン・ソーン博物館の内部の、小さなスケールのぎっしり詰まった、閉所恐怖症的空間構成。(下図中)


鏡、凸面鏡、スカイライト、ガラスブロックの床、屈折させられた光、様々な仕掛けが生み出す、空間の錯視的効果。

ピーター・クックは英国の建築家の特質を“クウェインとネス”と言う言葉で形容し、“何よりも、基本的なアイディアをいじくりまわし、 その中から無数の細かいヴァリエーションをひねり出し、多様な枝葉を創り出すことを楽しむ。この特性が建物の平面構成に 応用されるとき、そこに生まれるのは、ディテールにおける極度の巧妙さである―たとえ全体は陳腐のままであったとしても”という。

ティヴォリのヴェスタの神殿と呼ばれる古代ローマの円形神殿を引用して、ヴラマンテはサン・ピエトロ・イン・モントリオの僧院に 1502年“テンピエット”を建てた。これは引用と言ってもサマーソン卿によるとむしろローマから借用した理念の“拡張”であり、 それ自体、独自の完成品である。 このテンピエットは、パラディオの建築四書を通して一種の古典モチーフとなり、英国の建築家たちに使われた。

クライストチャーチ ソーン美術館 モーソリウム
Christ Church, Hawksmoor ・ Sir John Soane's Museum , Soane・ Cstle Howard. The Mausoleum, Hawksmoor
例えばオックスフォードにあるジェームズ・ギッブスの ラドクリフ・キャメラ、クリストファー・レンによるセント・ポール大聖堂のドームにも応用されている。 ソーンのイングランド銀行の一部にもこのモチーフを使った、ティヴォリ・コーナーという一角がある。 そしてホークスムーアは、このモチーフを使って、ヨーク近郊のキャッスル・ハワードに独創的な霊廟モーソリウムを設計した。 柱の間隔は密になり、ドームは収縮されて低く抑えられており、基壇が水平方向に広がって低く這う。
古典を引用しながら微妙な操作を加え、独自の建築にまで高めている。
新しい形態の創出というより、新たな形態の用法の創出という、サマーソンの言う建築家の役割を直截に示している。
この絶妙のプロポーションが、素晴らしく広大な敷地の緑と、ヨーク郊外の空の広がりの中で、静謐に横たわっている。(上図右)

ヴェスタの神殿の他にもパラディオのモチーフの建築が、英国にはいくつもある。
アングロ・パラーディアン・ヴィラと呼ばれる1700年代に流行したそうしたヴィラの中で、ラ・ロトンダをモチーフにした、 ロンドンのチズウィック・ハウスがまた不思議な雰囲気を持っていて印象的だった。 知的な遊びが感じられ、何やらそこはかとなく変で、英国的エクセントリシティの匂いが最も強く出ている。 古典をモチーフにしていながら、海を渡って英国で建築されると、独特の味付けがなされ、原典とは少しずれた雰囲気を身に着ける、誰かが これを“シー・チェンジ”と形容していた。
これがピーター・クックの言う“クウェイントネス”という形容に当てはまり、あるいはまたスターリングの言う “エクセントリシティ”を秘めた絶妙の形態操作であり、新たな形態の用法の創出ということかもしれない。

One Poultry
ジェームズ・スターリングが、亡くなる少し前に設計し、死の5年後に完成した建物にNo.1ポウルトリーというのがある。
オフィスと店舗、レストランが入った複合ビルで、ロンドンの中心、バンク駅の真上に建っているのだが、 道を挟んだ向かいには、ラッチェンスのミッドランド銀行、その先はソーンのイングランド銀行、 少し離れてホークスムーアのセント・メアリー・ウールノス教会が経っている。

グラスゴーで活躍したマッキントッシュを除き、なんとホークスムーア、ソーン、ラッチェンス、スターリングの建築がここに揃っている。
それぞれの完成年は、セント・メアリー・ウールノスが1724年、イングランド銀行は40年近くかかって1826年頃、ミッドランド銀行はおそらく1920年代、 とちょうど約100年ずつの間隔、そしてNo.1ポウルトリーが、約70年の間隔の後、1997年に完成している。
さらに、ホークスムーアの師匠レンのセント・ステファン・ウォルブルック教会、 ソーンが大きな影響を受けた友人のダンス2世の父ダンス1世によるマンションハウスまでもが直近にある。
英国の建築の歴史の縮図が、今もここに存在しているという、なんとも壮大なことになっている場所である。

目次

T.SIR JAMES FRAZER STIRLING (1926〜1992)
スターリング―ブリティッシュ・モダンを駆け抜けた建築家―
1.スターリングのスタンス
2.ビートルズとスターリング
3.大学シリーズ3部作
4.モンタージュ工法
5.実作に恵まれない時期
6.ドイツの美術館シリーズ3部作
7.コンテクストへ
8.シュトゥットガルト美術館以降
9.影響を受けた建築家
U.CHARLES RENNIE MACKINTOSH(1868〜1928)
マッキントッシュ―時代精神の手法化―
1.物自体への執着
2.形態の用法
3.グラスゴー美術学校コンペ
4.Let function dictate
5.美術学校2期工事へ
6.恒常的な強靭さ
7.図書室
V.SIR EDWIN LANDSEER LUTYENS(1869-1944)
ラッチェンスのカントリー・ハウス―軸線と迂回―
1.マッキントッシュとラッチェンスの接点
2.対照的な二人
3.マンステッド・ウッドMUNSTEAD WOOD 1893-1897
4.ル・ボワ・デ・ムチエLE BOIS DE MOUTIERS 1898
5.ゴダーズGODDARDS 1898-1899
6.ティグボーン・コートTIGBOURNE COURT 1899-1901
7.ホームウッド Homewood 1901
8.ディーナリー・ガーデンDeanary Garden 1899-1902
9.グレイ・ウォールズ GREYWALLS 1900
10.リトル・セイカムLittle Thakeham 1902
11.パピヨン・ホールPapilon Hall 1903-1904
12.ヒースコートHeathcote 1905-1907
13.ラッチェンスの設計手法
W.SIR JOHN SOANE(1753〜1837)
ジョン・ソーン卿博物館―たゆまぬ逸脱―
1.ロンドンの街並み
2.ジョン・ソーン卿博物館
3.建築家ソーンの形成過程
4.朝食室-the poetry of architecture
5.ダリッチ・アート・ギャラリー-lumiere mysterieuse
6.ドーム−ソーン卿と死の装具
7.ソーンから学ぶこと−私的プロポーション
X.NICHOLAS HAWKSMOOR(1661〜1736)
ニコラス・ホークスムーア―ローマへの憧憬―
1.キャッスル・ハワード
2.ブレニム・パレス
3.ロンドンの6つの教会
4.キャッスル・ハワードのモーソリウム

番外-Carlo Scarpa(1908-1978) クェリーニ・スタンパーリアの噴泉

初出
■NICE SPACE グラスゴー美術学校〜物自体への執着〜  SD1976.3
■英国の3人の建築家像
〜ホークスムーア、ソーン、マッキントッシュの求めた空間〜カラム62号 1976.10
■時代精神の手法化(マッキントッシュ 空間の詩学) 美術手帳   1979.5
■建築家マッキントッシュ 相模書房 1980.10
■ラッチェンスの建築 カラム88号 1983.4
■ジョン・ソーン卿博物館〜たゆまぬ逸脱〜 カラム98号 1985.10
■ニコラス・ホークスムーア〜ローマへの憧憬〜 カラム110号 1988.10
■心に残るまちなみ23 ロンドン 家とまちなみ54号 2006.9





T.JAMES STIRLING(1926〜1992)
ジェームズ・スターリング−ブリティッシュ・モダンを駆け抜けた建築家―
1.スターリングのスタンス

ジェームズ・スターリングは、サーの称号を授与された12日後、1992年6月25日、医療事故でに亡くなった。66歳だった。
没後6年経って、彼の著作集がイタリアで出版されたのだが、鹿島出版会の吉田さんからの依頼で、翻訳する機会を得た。
その本は“ジェームズ・スターリング−ブリティッシュ・モダンを駆け抜けた建築家”というタイトルで2000年9月に出版された。
余談だが、イタリアの本と同じ年、スキャンダラスな話題を含んだ"ビッグ・ジム"という伝記本がイギリスで出版されている。

著作集を翻訳してみて、36年にわたる建築家としての活動期間のわりに、作品解説以外の文章は、意外に少なく感じた。 それもほとんどが自身の建築について、細かなプログラム、コンテクスト、どう解決したかというような説明に終始している。 つまりは、スターリングが徹底した“実務の人”であった事を示している。




ジェームズ・スターリング−ブリティッシュ・モダンを駆け抜けた建築家





中では、30代前半に書かれた “ヴィラ・ガルシェからジャウール邸へ
−1927年と1953年の住宅作家 ル・コルビュジエ”(1955)
“ロンシャン− ル・コルビュジエの礼拝堂と合理主義の危機”(1956)
というル・コルビュジエについての二つのエッセイぐらいが例外で、この二つは、 リヴァプール大学の時の友人であり、師でもあるコリン・ロウの“理想的ヴィラの数学”を彷彿とさせる。 さらにレスター大学工学部棟で世界的にスターリングの名前が知れ渡る前の“ファンクショナル・トラディションと表現”までの、 30代に書かれた文章を読むと、 スターリングという建築家の根底にある実務中心のスタンスは、若い時から死ぬまでほとんど変わっていないのがよく分かる。

そのスタンスは、基本的にファンクショナリストとしてのモダニストである。そして何よりも、ここにもとりあげた、英国の建築史に点在する、 何人かの不思議に癖のある、先達を引き継ぐ建築家であるということである。




ビッグ・ジム


2.ビートルズとスターリング

イギリスの田舎町レスターに工学部の建物が完成したのは1963年であった。 レスターの出現は、ルイス・カーンのリチャーズ・メディカル研究所(1961年)と共に、 巨匠の時代が終わってモダニズムが新しいフェーズにはいった事をも意味していた。 それはまたイギリスを、久しぶりに建築の表舞台に引っ張り出す記念すべき建築でもあった。
これは音楽の世界でビートルズが果たした役割に似ている。
レスター大学工学部が完成したのと同じ年、1963年には、ビートルズの最初のヒット・アルバム“プリーズ・プリーズ・ミー”がリリースされ、 田舎町リヴァプールから世界に広がっていった。
レスター大学工学部も瞬く間に世界中に広がって、 スターリングの名は知れ渡った。これ以降の10年間位、イギリスが新しい流れを世界に発信した時代はないのではないか。

レスター以降、スターリングの新しい建築を雑誌で見るときには、ビートルズの新しいアルバムを聞くのと同じような、 待ち焦がれていたものを目にする、新鮮な感動があった。



ケンブリッジ大学歴史学部の完成した1967年はまさに、 “サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド”のリリースされた年だし、 さらにビートルズが解散し、 最後のオリジナル・アルバム“レット・イット・ビー”がリリースされた1970年、これは少しずれたが、 その翌年にオックスフォードのフローリー・ビルディングが完成している。
敢えて言えば、ビートルズというアイコンがもっている特別の響きが、建築の世界での、ジェームズ・スターリングにはあった。
ところでスターリングはジョン・レノンより16歳年長だが、 奇しくも、リヴァプールのクォリー・バンク高校という同じ高校を出ている。
優れた建築はそれ自体がその時代の建築に対する批評になっているという。レスター大学工学部は、 そうか、こういう建築も有りなのかと思わせる新しさがあり、こういうのが建築というものなら、是非建築をやってみたいと、 建築を志ざす若者に思わせる、新しい何かがあった。
スターリングの存在がなければ、 当時おそらく同じことを感じたであろう、後に続くリチャード・ロジャースやノーマン・フォースターの、 さらにコールハースの建築も違ったものになっていたのではないか。

プリーズ・プリーズ・ミー サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド レット・イット・ビー


3.大学シリーズ3部作
―レスター、ケンブリッジ、オックスフォード


3-1.レスター大学工学部

エクサンプロバンスで開かれた、CIAM(国際建築家会議)にMARSグループの代表として参加した同じ年1955年に、 スターリングは、3年間勤めたライオンズ・イズラエル・アンド・エリス建築事務所を辞め、同僚だったジェームズ・ガゥワンと パートナーシップを組み事務所をスタートさせる。スターリングはハム・コモンの集合住宅、ガゥワンはワイト島の住宅の仕事を持って。
ちなみにこの会議には、ぼくが働いていたHKPAのビル・ハウエルとジョン・パートリッジも出席している。

そして独立の3年後、33歳の時に、スターリング・アンド・ガゥワンは、レスター大学のマスタープランを担当していた レスリー・マーティン卿の推薦で、工学部棟の仕事を得る。
スターリング・アンド・ガゥワンにとっての初めての大きな仕事で、それまで 共同作業を積み重ねてきた二人の3年間の、コンペや実作で培われてきたアイディアの蓄積が、ここに密度高く徹底的に投入されることになる。
ロシア構成主義のメルニコフを思わせる、斜めの床面の200人用と100人用の講義室は、 それぞれ上階のオフィスタワーと研究室タワーによって引っくり返らないよう、押さえられている。



レスター大学工学部






ワークショップのガラス屋根はファンクショナル・トラディションで取上げた、ヴァナキュラーな工場建築のガラスのノコギリ屋根から、 大学からの要求で北に向けたためと、端部に加えた巧妙な処理によって、プリズムが45度方向に連続して並べられたように見える魅力的なものに変貌させられた。

大学3部作に繰り返されるサーキュレーションの視覚化ともいえる、階段とエレヴェーターのペア・シャフト。 奇しくも同時期のペンシルベニア大学リチャーズ医学研究棟でのいわゆるルイス・カーンのサーヴァント・スペース のペア・シャフトに似ているが、これに先立ちスターリング・アンド・ガゥワンは、シェフィールド大学コンペ案とセルウィン・カレッジのコンペ案で既に、 このペア・シャフトのアイディアを提出している(セルウィンのシャフトは設備用だが)。 時代をリードするこの二人の建築家が、同じアイディアを提出しているのは面白い。

そして利用する人数が上階に行くに従って減るのを表現した、だんだん細くなるガラスの滝のようなサーキュレーションの表現。 またオフィスタワーと研究室タワーは、機能の違いによって、構造も外観の表情も変えている。
レスター大学工学部


機能ごとに別の形、別のヴォリュームを用意するという、やり過ぎに見える分節アーティキュレーション。
遅刻した学生のための、と説明される、ポディウムから講義室に立ち上がる、螺旋階段を包むガラスのチューブ。
アーティキュレーションとサーキュレーションンへのこだわりは、実質的な処女作への気負いからか、こうして執拗に繰り返されている。

三方を大学の他の建物に囲まれた狭い敷地に配置された建物と、ガラス面を真北に向けたために出来たプリズム屋根の45度のライン、 公園側の境界線に沿わせたポディウムの斜めのライン、 60フィートの高さの、水位を求められた水槽をトップに置くために、高さの決まったオフィスタワー。(実際は100フィートにまで持ち上げられ、大学を喜ばせた。) コンクリートを剥き出しにしないことという大学の要求に従った、煉瓦とタイルとガラスで仕上げられた外壁の仕上。
講義室の外壁及び斜めの上げ裏、そしてオフィスタワーとペアシャフトのタイルは、 研究室タワーの外壁とポディウムのキャヴィティ・ウォール(中空壁)の煉瓦積みと、正直に区別して縦貼りにされている。


大学側から示されたプログラムへの服従と、それを根拠として徹底的にデザインで解く、執拗なコンテクスチュアリズム。
こうしたこだわりは、基本姿勢として、スターリングの最後の作品までついて回る。

全体を構成する基本単位はガゥワンの設定した、平面、立面とも、10フィートと20フィートのモデュールにきっちり載っている。 それとワークショップのガラス屋根のディテールは、おそらくガゥワンのもので、レスターでガゥワンの果たした役割は大きい。
設計する悦びに溢れた、アイディアに次ぐアイディア、スターリングとガゥワンは、まるでレノン/マッカートニーの曲作りみたいな、 設計プロセスを踏んでいる。
1955−64のパートナーシップ結成からレスターの竣工時のパートナーシップ解消までの10年弱、 スターリング・アンド・ガゥワンはこうした非常に密度の高い共同作業を行っている。
パートナーシップの期間も丁度ビートルズの1960-70の結成から解散までの約10年間に符合する。
レスター大学工学部 レスター大学工学部
3-2.ケンブリッジ大学歴史学部

ジェームズ・ガゥワンとのパートナーシップを解消してから、最初の仕事がこのケンブリッジ大学歴史学部で、 レスターのやり過ぎにも感じるアーティキュレーションは押えられ、英国の伝統的な温室や駅舎に近い、多面体のガラスのピラミッド という単一のアイディアでまとめられている。
エレヴェーターと階段のペアのシャフト、パテント・グレージングと呼ばれる既製のトップライト用サッシの使用、 低層部の煉瓦積みのキャヴィティ・ウォールの横積みと縦貼りの煉瓦タイルの対比など、大学シリーズとしてアイデンティファイできるように、 外観の構成要素は、意識的にレスターを踏襲している。
スターリングの説明によれば
“膨大な量の近代建築が陳腐である理由は、ひとつには建物全体の単純な形に部屋の配置を無理やり押し込めてしまっているからです。 私達は通常部屋に求められる理想的な形を出来るだけ残そうと考え、構造的なモデュールや前もって考えられた建物全体の形にあわせて、 部屋を歪めることはしないようにしています。
歴史学部では、部屋の形が積み重ねられて、建物全体の形になるようにしています。 部屋は小さなものは上の階に、大きくなるにしたがって下の階に持って行くようにしています。
閲覧室の上に斜めに架けられたオープンなスティール・トラスの屋根


は、日の光を閲覧室に浸透させ、 またサーキュレーションの廊下にも射し込むようにしています。
この屋根は技術的なエレメントだが、 ヒーター、換気用ルーヴァー、排気ファン、照明などを内蔵した気候調節装置でもあり、外部の気候の変化に合わせ自動的に調節し、 中の気候を一定に保つようになっています。
この“差し掛け屋根”からの外向きの応力はL型の ブロックのバットレスの効果によって安定させています。
そして建物のマス量塊全体は、様々な構造の応力によって決定付けられています。 外部はレスターと同じ素材のガラスやタイルなどを使い、硬く、冷たい、反射する表情は外の気候に合っています。
これらの素材は中には持ちこまれず、図書室などの内壁は吸音材で仕上げられています。 この内壁は視覚的には、テレビのスタジオのようです。廊下は閲覧室の上のスペースを巡るギャラリーとして考えられています。 防音のためにガラスが嵌められ、主要なサーキュレーションのスペースになっています。 建物の中を動く学生は、学部の中で最も重要な仕事場である図書室と視覚的に接触します。 この相関関係は学部側が作った概要書にあった示唆から発展させた考えです。”
大学シリーズ第1作目のレスターに比べ、手持ちのアイディアの全てを盛り込もうという力みが消え、シンプルな構成の建築になっている。
ケンブリッジ大学歴史学部 ケンブリッジ大学歴史学部
3-3.オックスフォード大学フローリー・ビルディング

大学シリーズ第3弾は、このオックスフォードのクイーンズ・カレッジの学生寮で、フローリー・ビルディングと呼ばれている。
再び大学シリーズとしてのアイデンティフィケーションのために、 外観の構成要素は、エレヴェーターと階段のペアのシャフト、縦貼りの煉瓦タイルとパテント・グレージングの組み合わせで、 再びレスターを踏襲して大学シリーズの最後を飾っている。
川に面した中庭を囲んで、面をとったコの字型の平面をしている。
この中庭型平面はつまり 中庭を囲んだオックスフォード、ケンブリッジのカレッジのプロットタイプを一応踏襲してアレンジしているということになっていて、 中庭の周りには一段床レベルの下がった、クロイスターの回廊もめぐらされている。
上階に行くに従って、 外側に広がるところなど、逆向きではあるが、セルウィン・カレッジのコンペ案を思い出させる。
曲面のブロックのうしろをペア・シャフトが受けているところも似ている。
また中庭と反対側の外観は、傾いた柱が露出していて、どことなくアーキグラムのウォーキング・シティを連想させるファニーな表情をしている。
外側にオーバーハングしているので、直階段が、上に行くに従って、 外側へ外側へとズレていく面白い構成をしていて、その部分はガラスで、外から見えるようにしている。


川に面したコーナーには、パンティングと呼ばれる船遊びの船着き場があり、中庭はそこからスロープで上がった位置で、 プラットフォーム状になっている。
そう言えばこのプラットフォームも、この大学シリーズの 外観の構成要素の一つで、スターリングは必ず、周りのレベルから人をプラットフォームに一旦上げてから、エントランスへと導く。
今回の中庭のプラットフォーッムの下には、朝食室と厨房がセットされている。
レスターでは太いパイプの換気装置が、 下部のトイレのために突き出していたが、ここでもやはり船を思わせる厨房のための換気装置が突き出している。 レスターよりも大きくポップな風見鶏のようなオブジェとして。
複雑な構成のレスター、少し要素の少ないケンブリッジと比べ、プログラムはシンプルで、求められているのは学生寮と朝食室だけ、 解くべき問題は少なく、大学シリーズ3作の中では、一番軽やかでユーモラスなデザインになっている。
ケンブリッジ大学歴史学部もフローリー・ビルディングも、レスターに続き国際的には高い評価を得たが、 英国内では、オックスブリッジの16世紀のカレッジの建築環境の中にあって、伝統的な美観とは相いれないという厳しい批判が根強くあった。
フローリー・ビルディング フローリー・ビルディング


4.モンタージュ工法

4-1.セント・アンドリュース大学アンドリュー‘メルヴィル’ホール

ケンブリッジ大学歴史学部(1964−67)とフローリー・ビルディング(1966−71)で、レスター以来の 縦貼りの煉瓦タイルとパテント・グレージングの外装に 固執していたのと同じ時期に、スターリングは、プレキャスト・コンクリートのパネルと、GRP(ガラス繊維補強ポリエステル-日本でいうFRP)の パネルを組み立てる、 違う素材の新たな2つの構法に取り組み、1964年にはプレコンによるセント・アンドリュース大学アンドリュー‘メルヴィル’ホール、そして 1969年にはGRPによるオリヴェッティ・トレーニング・センターの設計をスタートしている。

アンドリュー‘メルヴィル’ホールの敷地は、スコットランドの、地域固有の材料も、職人も存在しない場所なので、 プレキャスト・コンクリート構法が選択された。プレコンを他の場所で製作し、敷地に運んで組立てる方法。
工場はセント・アンドリュースから120キロ南のエディンバラにある。
2本の指が開いたような形をしている建物は、32種のタイプのプレキャストの壁と床のユニットをアセンブルして造られ、 それらのひな型は後の建物で再利用される。




最初の建物は高くつくが、後に建設する分のコストは安くなり、全体としてのコストは伝統的な構法と同じ位に押さえられる、とスターリングは言う。 しかし当初250名収容の棟を4棟つくる計画だったが、大学の事情で、最初の一棟しかできなかったので、ひな型分のコストはこの1棟 の負担となりコスト削減のもくろみは外れた。
それぞれ2本の指が開いたような形をしている4棟の宿舎は、街へ通じる尾根に沿った道からアプローチし、 急斜面にある、ここだけは現場打ちコンクリートのダイニングホールなどの共用施設を横に見て、 階段を下り、プロムナード・デッキに達する。 ガラスのプロムナード・デッキは、建物の途中階にあって、そこから上下の個室へと至る、サーキュレーションの動脈になっており、 また他の学生と接触する場にもなっている。
すべての個室の窓は、北海とスコットランドの山々の眺めの良い方向に振られている。
新しい構法を試みた、この建築の設計施工期間(1964−68)が、ケンブリッジ大学歴史学部の設計施工期間(1964−67)と ほぼ重なるところが面白い。
セント・アンドリュース大学 セント・アンドリュース大学


4-2.オリヴェッティ・トレーニング・スクール

GRPのオリヴェッティ・トレーニング・センターも、棟を2つに分け、2つのウィングの間からアプローチするところは セント・アンドリュース大学に似ているが、こちらは蝶か、飛行機を思わせる平面形をしている。
オリヴェッティ社は、15,6世紀チューダー・エリザベス朝のメーナー・ハウスを改装して、訓練生のための居住施設とし、 メーナー・ハウスに隣接して訓練施設を新築した。 メーナー・ハウスの改装は、軽やかなオリヴェッティ・ニュー・ブランチで実績のあるエド・カリナンが担当し、新築部分をスターリングが担当した。

ここでもスターリングはいつものように、与えられたプログラムやクライアントの要望および企業のイメージ、 敷地のコンテクスト等の与条件から離れて飛躍することはなく、 執拗にそれらの意味を読みとり、解釈し、それらの提起する課題に最もふさわしい回答を導き出そうとしている。
技術担当用の教室棟と営業担当用の教室棟に分かれた二つのウィングの間に、中間レベルにあるメーナー・ハウスの居住部分から、二本のスロープが差し込まれ、 上下階にアプローチする。
スロープを降りたところには、多目的室があって、ここは用途によって、2分割、4分割できるようになっている。 電動の間仕切りパネルは、屋根に突き出た十字形の戸袋に収納される。ご丁寧にもこの戸袋は透明ガラスで、 間仕切りの収納が見えるようになっている。
オリヴェッティ・トレーニング・スクール
この電動式間仕切りパネの戸袋を、屋根の上に突き出すアイディアをスターリングは気に入ったらしく、 セント・アンドリュース大学アート・センターのプロジェクトにも使っている。
例によって、プログラム、コンテクストを読み込んだスターリングは、真っ赤なタイプライターなどの、 カラフルですべすべした光沢のある、オリヴェッティ製品の企業イメージから、 GRPのパネルという外装のイメージを、回答として導き出す。カラフルな色は実際には、役所の指導でおとなしい色に抑えられたが。
微妙に開いた二つのウィングの角度は、敷地のコンテクストから言うと、ひとつにはコンターのラインに合わせているのと、 端部に迫る森の木々のラインを避けて、かつ1本の大事な樹を、切らないためという理由から决められている。
プレキャスト・コンクリートの2階床、陸屋根、そしておそらくリブに、差し掛けるようにGRPのパネルが取り付けられている。 軒樋はなく屋根と壁は一対になって、建築というよりはオリヴェッティのつくる製品のように見える。

スターリングはこの後、ランコーン・ニュータウンのロウコスト・ハウジングでプレコン・パネルを、同じ ランコーン・ニュータウンのサウスゲート・ハウジングではGRPパネルを、再び試みている。
オリヴェッティ・トレーニング・スクール オリヴェッティ・トレーニング・スクール


5.実作に恵まれない時期

5-1.ダービー・タウン・センター

ランコーン・ニュータウンを発表した1976年から、1983年のシュトゥットガルト美術館新館の発表 までの7,8年間、スターリングの新しい作品を雑誌上で見ることはなかった。つまりその位の期間、スターリングの事務所には実作の仕事がなかったということ。
多分1974年頃だと思うが、スターリングの事務所で働いていたスイス人の友人ウェルナー・クライスと、 GLCのキャンティーンで昼を食べた時、仕事がなくて自宅待機しているという話を聞いたことがあった。
また、日本へ帰った後、コフーン・アンド・ミラーで働いていた巴君がスターリング事務所に入った。 あれはおそらくシュトゥットガルト美術館の仕事が決まって、 動き出す1977年頃だったのだろう。
だから多分、世界的にもっとも名声の高まった1970年代前半の時期の7,8年間、 スターリングは実作の機会に恵まれないという皮肉なことになっていた。

この仕事のない時期に、レオン・クリエがスターリングの事務所に入り、1968年から1971年まで在籍し、実作以外の面で貢献している。
レオン・クリエは1946年ルクセンブルグ生まれで、実作は殆どないのだが、ドローイングを数多く発表し、 1970年代前半に影響力を持った。




ヨーロッパの既存の都市を読み解いて、その構成要素で都市を再構成する、ネオクラシカルなドローイングは魅力的で人気があった。
彼が担当したのがダービー・タウン・センターのコンペ案で、クレジットを見ると、スターリングとクリエのみが関わったことになっている。
完璧にクリエのアイディアと思える、電話ボックスの集合とか、傾いたファサードとか、ロールスロイスの彫刻とか、 ドローイングの感じも、クリエ色が強く、このあとのオリヴェッティ本社以降のドローイングに影響を与えたのではないか。
しかし、クリエの最大の功績は何と言っても、黒いスターリングの作品集を纏めたことではないかと思う。 ぼくはこの本を、出たばかりの頃に、ウェルナー・クライスにもらったのだが、 写真、ドローイング、すべてモノクロで纏めた、表紙のJames Stirlingの文字だけが赤い、クラシカルな表情をした作品集で、ひと目で魅せられた。
過去の作品のドローイングもクリエが新たに起こしたりしている。
モノクロで纏めたことで、スターリングのいい面が全面に押し出されている気がした。
この後のシュトゥットガルト美術館新館も、この作品集の中に収められて、 モノクロで提示されたとしたら、大分違った印象になったのではないかと、ふっと思う。
ダービー・タウン・センター


5-2.オリヴェッティ本社

ジーメンス・ミュンヘン本社、もこの時期の作品で、 レオン・クリエが関わっていて パースにその色が出ている。オリヴェッティ・ミルトン・キーンズ本社の計画案はクリエがやめた後の作品で、おそらくウェルナー・クライスが パースを描いたのではないかと思うのだが、その壮大な風景の表現はクリエの影響かもしれない。

オリヴェッティ・ミルトン・キーンズ本社は、それまでのスターリングの建築の構成要素の総括のような作品で、 “スターリングの折衷主義の豊かさを浮き彫りにし、極めて創造的な歴史主義者の形態に関する教養に出会う”と、ケネス/フランプトンは言う。




オリヴェッティ本社

オリヴェッティ本社


6.ドイツの美術館シリーズ3部作
―デュッセルドルフ、ケルン、シュトゥットガルト


6-1.デュッセルドルフ美術館

1975年、スターリングはドイツの二つの歴史的中心地に作る美術館の指名コンペに招待された。
1番目のデュッセルドルフでは、既存の建物とファサードは、保存することが考慮されていたので、新しい建物は地下に埋め、 入口のパヴィリオンだけを地上に見せて、美術館全体をシンボライズする。
それはまた、設計条件にある、 敷地を横切る公共の歩道の、出発点のしるしでもある。このショートカットの歩道は、ドイツのコンペで、 "民主的な”設計条件としてよく出され、シュトゥットガルトでも出てくる。 




6-2.ケルン・ワールラッフ・リチャーズ美術館

ケルン(2番目のコンペ)では、新しい建築群、 ホーヘンツォレルン橋の両側にあって、ライン川を横断する鉄道の軸(カテドラルの軸上でもある)を、 強化する形になっている。美術館のマッシブな部分は、カテドラルから最も離れた場所に置き、エントランスホールや他の場所にも、 教会の要素を付加して、カテドラルへの敬意をあらわしている。

この2つのコンペにスターリングは敗れるが、この2つで試みたことは、3番目のシュトゥットガルトで洗練された形で、 昇華される。

デュッセルドルフ ケルン


6-3.シュトゥットガルト美術館新館

1977年、ドイツの美術館シリーズ3番目のコンペ、シュトゥットガルトでようやく勝利し、 スターリングはいよいよ久し振りの実作に取り組むことになった。
敷地は12mの落差のある、国立美術館に隣接した1.2haの土地で、求められたのは 既存の国立美術館の増築と、劇場、音楽学校、図書館のコンプレックスである。 デュッセルドルフに続き、敷地を東西に横切るショートカットの歩道を設けることが、条件に含まれた。

ドイツのシュトゥットガルトという地で、英国人がどうコンテクストを読み込むかが注目された。 そこで、スターリングはドイツの建築家フリードリッヒ・シンケルのアルテス・ムゼウムの平面に 近い形で、デュッセルドルフの円形の中庭を、再び持ち出してきた。 アルテス・ムゼウムの中央のパンテオンはデュッセルドルフと同じ屋根のない中庭として、 設計条件のフットパスが、今度は円の内法をめぐる。
そして、コの字形の展示室が屋上テラスの彫刻広場を介して、ヴォイドの中庭パンテオンを囲む形にした。。
展示室は、無限定に流れる展示室でなく、シンケルのアルテス・ムゼウムの展示室を参照して、 縦一列に繋がり、各展示室の出入口を向い合せ、続きの部屋の全体が見通せる、クラシカルな“エンフィレイド配置”を 採用し、新館のエントランスから、本館へと一筆で繋いだ。
このシュターツガレリー新館が評価されて仕事を得た、クロー・ギャラリー(ロンドンのテート・ギャラリーの増築)でも、 サックラー美術館(ハーヴァード大学フォグ美術館増築)でも、スターリングは“エンフィレイド配置”をこれ以後、ずっと使い続けている。
シュターツガレリー シュターツガレリー


展示室階の下、エントランス階の平面を見ると、北から南に長方形の特別展示室、円形広場、三角形のレクチャーホールが横に並んでいる。
L字形の劇場、ピアノ形の音楽学校、コルのサヴォア邸へのオマージュである図書館は別にして、 エントランス階と展示室階とは全く違う平面をしていて、その階で必要な室を上下に関係なく、自由に配置している。
結果的にル・コルビュジエのドミノみたいに、自由なプランを得るために、床を厚くして、床だけで支えるフラット・スラブの構造形式をとっている。
その結果柱の中には、どうも空間的に必要と判断して置かれ、構造で使われていないものもあるようである。

1984年、このシュターツガレリーが発表された時、 外観、形態、特に多様な色彩がそれまでのスターリングのイメージと大きく異なり、 スターリングは変わったと言われた。
大方のそうした見方に応えて、シュターツガレリーの発表と同時に “モニュメンタルでインフォーマル”という文章を日本の雑誌(SD 1984/10,GA DOCUMENNT 11)に発表した。
その中でスターリングはモニュメンタルとインフォーマル(気軽で馴染みやすい)と、抽象的abstractと具象的representationalという二つの対立概念を示し、 自分達がやってきた事は常にこの対立概念の両方の側面を均衡させながら建物を作ってきた事だといい、 それはシュトゥットガルトでも変わらないと言っている。
抽象的とは、モダン・ムーヴメントに関連した行き方のことであり、 具象的とは伝統、ヴァナキュラー、歴史、建築遺産に関わるものなどの、時間を超えた建築の姿への関心のことであるという。

シュターツガレリー シュターツガレリー


7.コンテクストへ

7-1.セント・アンドリュース大学アート・センターとライス大学

これより前、1971年に、スターリングは旧いセント・アンドリュースの中心で歴史的な建物の保存の問題を考えるデザインに取り組んでいる。
18世紀の邸宅の脇に、入り口の門衛の建物(ロッジ)だけは残し、隣接する建物は取り壊すという条件で、 ギャラリーとスタジオを設計した。前庭を使って、街のための新しい“戸外の部屋”、 市民と大学を結ぶ(タウン・アンド・ガウン)、中間の媒介スペースを提案した。
コンテクストは常にスターリングの重要課題ではあるが、既存との取り合いのプロジェクトは初めてで、特にコンテクストを強く意識する、切掛になったプロジェクトである。
1971年から81年のライス大学の建築学部増築は、やはりこのコンテクストへの比重が大きく、この意識はすぐこの後の、クローギャラリーにつながっているように思える。 1920年代に建てられたオリジナルのキャンパスの、ある種ヴェネチア風、フィレンツェ風、またアールデコ風の建築の、 限られた範囲の、煉瓦、パンタイル瓦、勾配屋根を使ってデザインすることが求めらた。



建築学部の建築はL字型をしており、それに,もうひとつのL字型の平面が付加された。
新しい展示スペースの上と、講評のための部屋の上が、ガレリアになっている。 既存棟は、コロネードによって、隣接する建築に連結され、L字型の増築棟は三面の中庭を、 つまりオープンなキャンパスに新しい囲まれた庭を作り出している。
スターリングのデザインした新しい建物のファサードは、既存の建物のファサードと見分けるのが難しいほどで、フィリップ・ジョンソンは“ライスに行ってみたが、 何処にもそれらしいものはなかった。“と強烈な皮肉を述べている。
こうした見方に対してスターリングは“このデザインがおとなしい、 または保守的だと考える人に、慎みや抑制は、他のプロジェクトの形態主義と同じように、私達にとっては変貌ではない(中略) 抑制と形態主義は、両者ともに私達のヴォキャブラリーの中にあります。”という。
セント・アンドリュース大学 ライス大学


7-2.クローギャラリー

クロー・ギャラリー クロー・ギャラリー


シュトゥットガルトの2年後に竣工したクローギャラリー(テート・ギャラリーの画家ターナーのための増築棟)について、 インタヴューの中でチャールズ・ジェンクスは“ジョン・サマーソン卿はこの美術館はソーン美術館の様に少し気違いじみていると言っています。 私はその奇妙な狂騒は一種の非論理的論理にあると思います。つまり一見気まぐれに見える物が、 よく観察してみると意識的になされた論理と呼べる素直なものであるとわかるのです。”
結果的に外から見て、恣意的としか思えないものについても、スターリングは与えられたプログラムを徹底的に読みこんで、 プログラムからの展開で形を生み出して行っている。そのことをスターリングは繰り返し、言っている。 スターリングの作品解説は常にコンテクストの説明から始まる。
既存のロッジ(門番小屋)を残して計画しなければならなかったセント・アンドリュース大学アートセンター(1972年)以後、 特に周辺環境のコンテクストへの考察が強く表に出てくる。
このテート・ギャラリーの増築であるクローギャラリーでは特にコンテクストの読み込みが徹底している。
外壁は、本館のコーニスの繰形を、そのまま連続させ、 かつ本館の外壁のポートランドストーンから、段々と保存される煉瓦造の 建物に近づくにつれて、煉瓦の外壁に変化してゆく。そのための道具として、アスプル




クロー・ギャラリー クロー・ギャラリー

ンドのゲーテボルグ裁判所の外壁の 格子パターンを援用して、実に巧妙な外観を作り出している。
本館の側面に対峙させた正面ファサードは、ポートランドストーンとし、エジプト的な三角の切り込みでエントランスを示し、 本館の半円窓の古典要素をその上に加える。 エントランスの階段を上がったところにある、テート・ギャラリー本館の1階の展示室のレベルに、 2階のクローの展示室レベルを合わせるために、エントランスと前庭をGLから少し下げてインティメイトな雰囲気にしている。
内部の展示室は色やデザインを抑えて、ターナーの光と影の絵画を活かすために、自然光をどう入れるかだけに腐心している。
通常の敷地の都市的コンテクスト、 既存建物のコンテクストだけでなく、プログラムの持つコンテクスト、クローギャラリーであれば、 ターナーのコンテクストまでもが含まれる。
これらのコンテクストから“意識的になされた論理と呼べる素直なもの”によって、注意深く形態へと移されていく。 スターリングは繰り返しこうした同じ事を言いつづけている。
ある意味では建築家にとって当たり前のことである。 建築を作る作業には、スターリングのように強固なコンテクスチュアリズムや、 ファンクショナリズムが根底にあるというシンプルなことが、新鮮に、また馴染んで見える。


8.シュトゥットガルト美術館以降

スターリング事務所は、シュトゥットガルト美術館以降、スターリングの死までに計画案、コンペ案を含め20余のプロジェクトを残した。
その中で実現したのは、ライス大学の建築学部増築79/81、ハーヴァード大学サックラー美術館79/84、 ベルリン・サイエンス・センター79/88、クローギャラリー80/87、 コーネル大学舞台芸術センター82/87、ブラウン本社・生産工場86/92、No.1ポウルトリー86/97。

最晩年に実現したプロジェクトの、コーネル大学舞台芸術センター(下左)とブラウン本社・生産工場(下右)は、これまで見慣れたスターリングの作品の プログラム、コンテクストから積み上げてゆくやり方の延長線上にあって、 安心できるが、1986年に設計が始まってスターリングの死後に完成したNo.1ポウルトリーや、実現しなかった いくつかのプロジェクトには、少々形態の操作に全体の比重が傾きすぎているものもある。





ヴェンチューリに敗れたロンドンのナショナル・ギャラリー増築のコンペ案にも、今までのスターリングのコンテクスチュアルな イメージとどこか違う、形態操作に傾きすぎた、違和感を感じる。

最も密度の高いレスター大学工学部から始まった、プログラムとコンテクストを丁寧に読み込み、 “創造的な歴史主義者の形態に関する教養”を駆使した、折衷主義者スターリングの デザイン手法は、ケンブリッジ大学歴史学部、オックスフォード大学フローリ・ビルディングと続く大学3部作、その後の空白の間に、 コンテクストの読み込みに磨きのかかったドイツの美術館3部作へと駆け上り、その最後の実現作、 シュトゥットガルト美術館へと収斂した。
そしてシュトゥットガルトの余韻の残るうちに、肩の力が抜け、余裕を持って、良い形で結実したのがロンドンのクロ―ギャラリーだと思う。



コーネル大学舞台芸術センター ブラウン本社


9.影響を受けた建築家

RIBAのゴールド・メダル授賞式での講演で、スターリングは自身がこれまで影響を受けた建築について語っている。

“建築学校の中間の学年の頃、マッキントッシュやホフマンといった、 強固なアールヌーヴォーのデザイナー達にのめりこみましたが、 ヴォイジーやベイリー・スコットといった英国の同時代人には興味がわきませんでした。最終学年になるにしたがって、 その興味はル・コルビュジエやイタリアの合理主義者達に移りましたが。
1950年、私は卒業してロンドンに行くとすぐに、ホークスムーアの爆撃をうけた教会群を見に行きました。 私は、アーチャー、ヴァンブラ、ホークスムーアといったイングリッシュ・バロックの建築家達に惹かれ、 彼らのアド・ホックなテクニックに感嘆しました。彼らはそれによって、ローマン、フレンチ、 ゴシックなどのさまざまな要素をしばしば同じ建物の中で自在に使ってデザインします。
ロンドンに移った最初の頃、リヴァプールで学んでいた頃には知らなかった、ロシア構成主義者達についても学びました。 リヴァプールにはそれについての本は全くありませんでした。あったのはアスプルンドの本で、私はそれを貪り読みました。 しかし、近代建築については、コルビュジエの初期とロシア構成主義までで、それ以上新しいものには興味が持てませんでした。
そして50年代初頭には、ヴァナキュラーな建物すべてへの興味が増していきました。農家、納屋、村落の集住といった、 非常に小さなものから、倉庫、工場、鉄道や展示場のような土木的な構造物といった、非常に大きなものまで。


50年代中頃には(真のブルータリズムの発見と関連があるのでしょうか?)私は縞々の煉瓦やタイルを使う、 バターフィールド、ストリート、スコットなどの、ヴィクトリア朝の建築家達に関心を持ちました。
(中略)
 50年代初めから、ソーン・ミュージアムについては知っていて、 その後ソーン、ガンディ、グッドリッジ、プレイフェアといった、ネオクラシシズムの建築家に興味を持つようになりました。 ドイツのネオクラシシズムの建築家達、ギリーやワインブレナー、フォン・クレンツェそしてシンケルは、 異なるスケールや、異なる材料をジャクスタポジション並置する手法を拡張したのだと思います。
私が特に興味を持つのは19世紀の前半で、ネオクラシシズム新古典主義からロマンティシズム浪漫主義への転換期の建築です。 情感の連想を最大限伴う、最小の抽象から、リアリズムとナチュラリズムの言語が入ってきて、 クラシシズムが崩壊するというプロセスは今日の状況に通じるところがあって非常に興味深いところです。"

スターリングの形態についての関心は、あらゆる時代に渡り、シンケル、アスプルンド、ロシア構成主義、ル・コルビュジエ とともに、英国の建築家達、ホークスムーア、ソーン、マッキントッシュ、そしてここには出てこないがおそらくラッチェンスについても、特に強い偏愛を抱いていた。 そしてローマン、フレンチ、ゴシックなどのさまざまな要素をしばしば同じ建物の中で自在に使ってデザインした、 建築形態の蒐集家ホークスムーアの “アド・ホックなテクニック”はまさに強固な折衷主義者スターリングのものでもあった。
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T.CHARLES RENNIE MACKINTOSH(1868〜1928)
マッキントッシュー時代精神の手法化ー

1.物自体への執着

イギリスに渡って、はじめて訪れた冬のグラスゴーの印象は、決して好もしいものではなかった。
これが、あのマッキントッシュ描くパースの空かと、納得させるグルーミーな冬空の下で、 グラスゴー・スクール・オブ・アートはしかし、街の何ともいえない暗さと裏腹に、とてもさわやかな 印象をもたらしてくれた。

そのさわやかさはおそらく、この建築家の、物自体に対する執着の、そのあまりの強烈さからくるものではないかという気がした。
前面に出た空間のコンセプトのいやらしさ、あるいは、いじくりまわされた空間の不明瞭さ、複雑さは、 この建物とは無縁のものである。
外観は、グラスゴー固有のアノニマスな建築に近い。そして全体の構成はシンプルで明解である。
しかもなお、その空間が、豊かな、美しい、そしてまた人に 安らぎを与える静謐なものになっているのは、物自体への、ディテールへの建築家の、のめりこみ方の 凄さである。白井晟一の「充実した空間は、誠実なディテールの集積」という言葉を想い出した。

このさわやかさのもうひとつの理由は、彼が決して建築というものの一般解を求めたのではなく、 グラスゴー・スクール・オブ・アートという課題に対する特殊解を常に追求していたからだと思う。
経済的な、そして敷地条件の、また、学校側の多彩な要求その他の、現実の切迫した事情をデザイン過程のプラスの面に 持っていく姿勢が、常に建築家にはあった。





マッキントッシュは明らかに、この現実の切迫した事情を、現実の建築を発生させるものとして歓迎していたようである。 この考え方は、建築することが単なる創造行為ではなく、社会的なプロセスと見る、ラスキン、モリスの 思想からきている。
実際、条件が困難になればなるほど、マッキントッシュのデザインは冴えてくるようである。

1896年のコンペ入賞から、1909年の第2期工事(この建物の工事が、経済的理由から2期に分かれたのは 幸いなことであった)の完成までの10年間余りは、マッキントッシュが社会と密接に関わった 全期間であり、その間に、彼の代表作はほとんど全てできあがっている。ひとりの作家の実質上の活動期間としては 短いが、その密度の高さにおいては、他にあまり例を見ないと思う。ほとんど全ての、マッキントッシュの建築言語は、 この建物の中に見ることができる。しかも最も洗練されたかたちで。

3年数ヶ月のイギリス滞在中、だいたい1年の間隔を置いて三度この学校を訪れたが、そのたびごとに前には 気のつかなかった、細部のデザインの素晴らしさを新たに発見した。
そしてまた、写真を見て感じるこの建物の 細部の繊細さが、実際の部材の細さからくるものではないことを再発見する。マッキントッシュの使う部材はむしろ ガッシリとして力強く、写真に頼って1年間で薄れたイメージを裏切って、部材の絶対的野太さを、改めて見直すことになった。
(SD 7603)
東立面東立面 西立面西立面
2.東立面から西立面へ

ウィロウ・ティールームのあるソーキーホール・ストリートを西に行くと、二つ目の十字路はダルハウジー・ストリート、 次の十字路はスコット・ストリートと交差する。 この二つの通りにはさまれ、ソーキーホール・ストリートと平行して一本北側を東西に走る、レンフルー・ストリートに面して、 グラスゴー美術学校がある。
ダルハウジー・ストリートと、 スコット・ストリートは共に非常な急坂で、ソーキーホール・ストリートから見上げると、美術学校の東面または西面と南面の一部が見える。 ダルハウジー・ストリートの坂を登って行くと、東面のエレヴェーションが、建物全体のコンテクストを離れて、独立した一つのエレヴェーションとして力強くまず現出する。(上図左) 初めて訪れたとき、現実の建築として、これ程強い存在感をもったエレヴェーションを、今までに見たことはないように感じた。
この東側の面は、第二期の図書館のある西側のエレヴェーションとは、非常に対照的な性格を持っている。 まだ成熟していない建築家の感性が生の形で表れているのかも知れない。 それだけ余計に、マッキントッシュ独自の、生まれながらの比例感覚が表れていると言える。
東立面図1907


成熟の域に達した西面の非常に統一感のあるエレヴェーションに比べると、一定の法則もなしに各々異なる形態要素が彼の感性だけを頼りに寄り集まって、 不思議なバランスを保っている。
西面の統一感と同じ位に、あるいはそれ以上に、この東面の不思議なバランス感覚は心地よい。 東立面がデザインされたのは、コンペが行なわれた1896年で、北寄りの下部にあとから窓が二つ加えられた以外は、 ほとんどコンペの時の計画通りに施工されている。
それに対して西立面は、コンペの時のデザインから第二期工事の設計変更の時点1906年〜7年の間に、 図書室の大幅な変更に伴い、全く最初とは異なるものになった。(上図右)
1896年のコンペから、設計変更が行なわれ、1909年に西翼が完成するまでに、10年ちょっとの年月が経っていて、この期間がマッキントッシュの 建築家としての実質的な活動期間のほぼ全てである。
年齢で言えば、マッキントッシュ20代後半から、30代後半までのことである。つまり、このグラスゴー美術学校の東側の顔から西側の顔への変化が、 マッキントッシュの建築の全てを物語っていると言える。
西立面図1907
東立面 西立面
3.グラスゴー美術学校コンペ

美術学校発行の小冊子によればグラスゴー美術学校は1840年、公立のデザイン学校として創設された。
その目的には、この大工業都市の工業製品のデザインを、よりよいものにしようという啓蒙的な意味合いがあった。
1852年には、ロンドンのサウス・ケンジントンにあった科学芸術庁のコントロール下に置かれた。 グラスゴー美術学校はここサウス・ケンジントンに学生の作品を送り、 1882年には、スコットランド中で、最も多くの賞を獲得した。英国全体でも最も多く政府からの補助金を獲得し、 1897年には、英国全体で最もたくさんのメダルを受けた。
イングランドの人、フランシス ・ H ・ ニューベリーが、1885年に校長に任命されて赴任してきた。
ニューベリーはこの時まだ31歳、ロンドンのさまざまな芸術活動に精通しており、 グラスゴーの新しい動きに大きな関心を寄せ、意欲充分に乗り込んできた。行政能力もあり、 1890年代初めごろまでには、急速に学生数を増やし、英国全体からみても、 おそらく最も魅力的な学校になった。
長い間市のギャラリーを仮りの校舎にしてきたが、学生数の増加で間に合わなくなり、 フラ・ニューベリーが校長になってから10年目の1895年9月6日、理事会が召集され、新校舎建築の方策が検討された。
その後、寄付などで、2万1千ポンドの資金が集まったことが、1896年2月26日の「グラスゴー・ヘラルド」に掲載されている。


敷地はそれより前に、約2,500uの土地が確保されていた。
ただちに建設委員会が組織され、設計競技の条件設定が行なわれた。建設コストについては、 1万4千ポンドという上限が決められた。これには建築、設備、電気、外構など全建設コストが含まれた。 このコストを一割以上オーバーした者は失格とされた。
ニューベリーが面積表などの設計要項の作成を行なった。その中には、教室の寸法、窓のとり方や大きさについても触れられていた。 この時にコンペに参加する建築家は、8人以内と決められた。 最終的には12人に増えたが、実際に提出したのは11人であった。
貨幣価値が今とは違うので、1万4千ポンドがどの位の価値なのかは分らないが、法外に厳しかったことは確からしい。 事実、条件の中には何にも装飾のないプレーンな建物でよいと強調された。
参加建築家達は数ヶ月のスタディののち、この予算では、要求された規模の建物を建設することは不可能であると結論を下し、 そのことを共同で表明した。
そのため、建設委員会は設計要項を練り直し、次のような条件を要項に附加した。 すなわちコンペ参加者は、建物全体の内、1万4千ポンドで建設可能な範囲を図面で示し、また全体でいくらかかるのか、 コストの見積りを提出するように要請されたのである。それと同時に、〆切は1896年の9月15日から10月1日に延期された。
グラスゴー美術学校 グラスゴー美術学校


コンペの結果は1897年1月13日に発表され、勝者はハニーマン・アンド・ケピー事務所であった。 そして完璧にマッキントッシュ一人の全面的なデザインであった。 ニューベリーは、すでにこれ以前から生徒であるマッキントッシュの中に、素晴らしい才能の萌芽を認めていた。 はっきりとマッキントッシュの手によるものであることを知った上で強くこの案を推したのである。
装飾を排し、またニューベリーのプログラムに適確に対応したマッキントッシュの案は、厳しい予算の中で、 そうでなくても最上のものであった筈である。
こうして決ったマッキントッシュの案は、全体が二期にわかれて工事出来るように半分に分割されたもので、 東側の半分が第一期としてまず施工されることになり、第二期分については基礎のみが施工されることとなる。(上図)
この案の見積りによると、全体のコストは22,753ポンドであった。これは照明をガスで考えた場合で、 電気なら110ポンド余計にかかると断っている。
第一期分は、エントランス・ホールと階段を含んだ線までの東半分で、 そのコストは13,922ポンド余であった。実際には第一期分の建設費は、竣工時には大幅にこの見積りをオーバーすることになるのだが。
マッキントッシュは、この年までに既に三つの建物をハニーマン・アンド・ケピーという二人のパートナーの指揮下で設計し、次第に責任の範囲を広げてきていた。 1896年と言えば、マッキントッシュ28歳の時である。 この時にこうした財政的にもあまり旨みのない、 しかも規模も大したことがなく、また要求事項の厳しい仕事が入ったということは、マッキントッシュにとって、 非常に好都合であった。

この頃ハニーマン・アンド・ケピー事務所は、かなりの量の仕事をもっており、 この美術学校のコンペの仕事は比較的マイナーな部類に入っていた。 ぐんぐん腕を上げているアシスタントに任せるには、ちょうど適切なものであったのだろう。
1896年のコンペの時点の図面は、今ではどこにも見つからない。ただ1897年の時点の平面が残されており、 最初の段階がどういう計画であったかがわかる。
プランの構成は、敷地なりに東西に長く、廊下を軸にして各室が取付いている形で、ちょうど アルファベットのEの字を横に寝かせた単純な形をしている。 敷地条件、限られた予算という限定条件、ニューベリーの指定した、スタジオには北向きの大きな窓をとるべきことなどの様々な制約が、 この単純な形をとらせた直接的な理由である。(上図右、下図−但し2期竣工後)
マッキントッシュの競技設計に臨む態度もこの単純なプランを生み出した大きな要素であったろう。
彼は、自分のコンセプチュアルな思考過程の中で、 一般解としての建築を措定し、一つ一つの建物の設計を、その道程と考えるタイプの建築家ではない。
個々の与条件に忠実にデザインを進めるタイプの建築家で、 制約条件を障害物と考えるよりも、むしろそれを利用してしまって、それを解くことによって、逆に新しい手法を発見していく、という強靭な設計方法を採る。
2期竣工後平面図
4.美術学校第一期工事

4-1.エントランス

全体構成の単純さの中には、キラリと光る才気が見られる。例えばエントランスのドアは寸法的にはちょうど北立面の中心に位置しているのだが、 平面的にも立面的にも、意識的にシンメトリーになるのを避けている点である。(上図)
北立面図で地下一階のトップライトを保護する目的のフェンスを見れば、このドアが中心に位置することがわかる。 従って中心になるように見える二階のミュージアムへ通じる階段室は微妙に東側にズレている。
この階段の一階から踊り場まで上がる側の半分が、エントランス前の階段、ポーチ、 またエントランス・ホールの壁と柱にはさまれたヴォールト天井の軸と一致し、この軸が建物のセンターラインになる。
エントランス・ホールは最小限の幅をしており、ヴォールト天井もこの種のエントランス・ホールとしては極端に低く、暗いスペースをつくっている。 エントランス・ホールにある三本の独立柱は、必要以上に太く、鈍重な柱で、このホールを完全に二つに分断している。
中心軸は、さまざまな方法で強調され、中に一歩足を踏み入れると、視線はミュージアムの天井のトップライトから光の降りそそぐ階段へと、自然に導かれる。 (下図中) 薄暗く狭いエントランス・ホールから、明るいミュージアムとそこへ通じる階段へという、光と陰翳との対比、この巧みな演出はこの建物では、そこここに見られる。(下図中)
明から暗への起伏の流れが、空間のつながりの中で、エントランス・ホールの空間的豊かさをかもしだしている。 光の量の問題と、スペースの大きさの問題、この二つの面で、エントランス・ホールは、狭く、 暗いというネガティブな方向で非常な成功を収めている。
何が何でも明るければよいというわけではないし、何が何でも広い空間がよいというわけでもない。 建物全体の中の一つの空間はあくまでも、 他の空間との関係で決まってくる。トンネルのような細く、薄暗い空間は、光に溢れたミュージアムへと導かれる。




4-2.主階段

階段室の手摺子の扱いがまた抜群によい。手摺子の線としてではなく、堅格子のスクリーンの面として扱っている。 光を通しながら影をつくり、空間を分断しながらも、相互に結び合わせる、 この格子のスクリーンの性格をマッキントッシュは、巧妙に扱う。
彼は、堅格子のスクリーンのもつ性格に魅せられ、ヒル・ハウスやティールームなど何度も何度も繰返し利用している。
1階から踊り場までの堅格子は、踊り場レヴェルでの通常の手摺の必要の高さに揃えてあり、 同じように踊り場から2階までの堅格子は、2階レヴェルでの通常の手摺の必要高に合わせてある。(下図中)
この辺の手摺高の処理法は実に巧妙である。階段の斜線は手摺スクリーンには反映されていない。 手摺スクリーンはあくまでも線ではなく面である。この二つの格子面を支える親柱は、 両方とも二階の手摺の高さに揃えてあり、いずれも踊り場の壁から突き出した、対になった梁によって支持されている。 この二本の水平材によって、一本の垂直材をはさむ木の扱いも、格子スクリーンと共に、 マッキントッシュの建築に何度も現われるヴォキャブラリーである。
堅格子スクリーンの階段への使用は、多分ヴォイジーの住宅の方が先かも知れない。しかしその扱い方はマッキントッシュの方が断然うまい。
階段室を下から見上げると、日本の釣鐘のミニチュアが、不思議な形をした、鉄の線材で出来たオブジェの下に釣り下がっている。 (下図右)
このオブジェは実は、グラスゴー市の紋章をアレンジしたものである。 釣鐘の方は、ニューベリーが、この学校のために以前購入していたものである。
マッキントッシュの空間構成は、あくまでもこうした、小さなモノ達を含めて出来上っている。
このグラスゴー市の紋章をモチーフにしたアイアン・ワークと釣鐘が、階段室を象徴的に、キリッと引締めている。


エントランス 主階段主階段
4-3.ミュージアム

ミュージアムは、階段と東西方向の廊下や校長室の前室とを結ぶ建物全体の中のピヴォットのような空間である。 作品を展示するスペースとして、機能的な面においても美術学校の中でも最も重要な空間であろうし、 平面構成の上でも、全体の中の核になる場所である。
全てが切り詰められた全体の中で、割合いに広々としたスペースになっている。 機能的には展示スペースとして必要とはいっても、普段は確たる目的をもった場所ではない。 いわば無駄な空間である。サーキュレーションの澱みたいな空間である。 しかし、この光に満ちた(と言っても北国の光は弱い)空間は、第一期工事の中で最も重要な空間である。
ミュージアムの中心に位置する階段室の穴(ウエル)は正方形に近い矩形で、その四つのコーナーからは、スレンダーな木製の柱が立っている。 (下図左)
この柱の一対を結んで、トップライトのトラスの下弦材が渡されている。 トップライトは、階段室のウエルの幅で、そのまま東西方向に、エンドの壁の位置まで伸びている。



ミュージアムにおいて、階段室の釣鐘に相当するモノは、トップライトの下の軽やかな照明器具である。 この照明器具は古い写真には出てこないし、現在もないので、もしかしたらマッキントッシュがデザインしたものではないかも知れないが、実にいい。 (下図右)
オットー・ワグナーの、ウィーンにある郵便貯金局の建物の、ガラス屋根の空間の柱に取付けられた照明器具を、連想してしまう。 どちらもトップライトからの自然の光の下に、吊り下げられており、繊細な花を思わせる。
図書室の暗い格天井から鎖で吊り下げられた、重そうな照明器具と、対照的である。
4本の水平の棒とそれに直角な2本の棒が、 トップライトの両端から吊り下げられている。その四本の棒のそれぞれの先端から釣糸についた浮きのように、 乳白のシェイドが吊られている。この軽やかさ、繊細さが、降りそそぐ自然光とよく調和している。


ミュージアム ミュージアム
4-4.北立面

レンフルー通りに面した北立面は、ニューベリーの要請に応えた、大きな面積をもつ窓が、教室の部屋割りに合わせてアシンメトリにあけられている。 物理的に中心に位置するエントランス・ドアによって、普通にやるとシンメトリーになる立面を意識的に崩そうとしているかのようにみえる。 英国の建築家はよく "Let function dictate"(機能優先)ということを口にする。内部の機能を考えないで、 立面を独立したものとしてピクチャレスクに構成してはいけないという潔癖な態度である。
(下図−但し2期工事後北立面図)
現在でも英国人の建築家の多くにみられるこの態度は、ラスキン、モリスから遡って、オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージンにその源がある。
カソリックであるピュージンの強烈な中世への憧憬は、建築に倫理を持ち込んだ。 曰く“建築の質は、それを生み出した社会の質にダイレクトに依存する”曰く“真実の表現”、“正真な構造”、 “建物の各部は、その目的を表わさ(スピークし)なければならない”。曰く“建物の内部空間の配置は、その外部に表現されるべきである”。
こうしたピュージンの考え方は“教会建築学協会(エクリジオロジカル・ソサエティ)”の発行する機関紙「エクリジオロジスト」を通じて、広汎な影響力を持った。
“教会建築学協会”は、既成のキリスト教会を批判し、礼拝式の改革、また建物も含めた礼拝式に使われるあらゆる器物の改革を目ざした。
彼らは基本的にピュージンの考え方に、価値判断の基礎をおいていた。




“教会建築学協会”の2人の主要な建築家のメンバーである、ウィリアム・バターフィールドとジョージ・エドムンド・ストリートは、 ピュージンからの影響と、現実の社会的要請を融合させた、新しいデザインの方法論を示した。 つまり13世紀ゴシック建築に他の様式、外国からのディテール、近代技術を接ぎ木したものである。
例えば、バターフィールドの設計した、ロンドン・オックスフォード・サーカスのすぐ近く、マーガレット・ストリートにある“オール・セインツ教会”にその具体例がみえる。 これはドイツ・ゴシックの尖塔をもち、ロンドンの上質煉瓦を使い、鋳鉄の梁を内部に露出し、ジョージアンのサッシ窓をもったゴシック建築であった。
しかし、これは恣意的に選ばれた様式を混ぜ合わせた無責任な折衷主義ではない。 ヴィクトリア朝特有のある独特の質をもった、ヴィクトリア朝の一つの頂点示す建築である。
そこにはピュージンからの影響である、一種の故意の不器用さ、ぎこちなさがみえる。“真実”“正直”“現実性”といったモラルの呪縛がある。
こうしたピュージンの思想は、ウェッブやモリスへと受け継がれ、アーツ・アンド・クラフツ運動へと、少しずつその形を変えて、連なっていく。 こうした時代精神を、マッキントッシュは、ナイーヴなまでに生真面目に吸収している。


北立面図
彼は、二つの対立する思想的流派、アーツ・アンド・クラフツとヴィクトリア審美運動との両者から、さまざまな形で影響を受けている。 アーツ・アンド・クラフツは、芸術は、その形態、内容、成果によって社会を飾り、崇め、導き高めなければならない、 といったように社会的でモラリスティックな基礎に立っていた。これに対し、ヴィクトリア審美運動は、芸術家のみに義務を負う、という芸術のための芸術という立場にいた。 従って社会的観点からみれば、芸術は非道徳的で、社会に対しては無関心、また儚いものであり得た。
この二つの運動の見解は、対角線の両端で対立していたのだが、これらに影響を受けた実践者達が、明確に区別をつけていたという事実はない。
したたかな実践者たるマッキントッシュはその時代の思想体系、形態嗜好を、無差別に貪欲に、確かな批評眼をもって、 吸収し、消化し、自分自身の独自の手法、形態の用法へと総合する。
ヴォイジーの材料と工法に対する忠誠とビアズリーの線の捩れが、そしてまたバーン・ジョーンズの道徳的リアリズムとヤン・トーロップの神秘的抽象が、 渾然一体となって参照され、全く別の確固たる独自の世界に変形される。
このレンフルー通りに面したエレヴェーションには“内部の配置は、その外形に表現されるべきである”とか “窓の配置はアクセスや方位や、採光、そして換気を考えて決定すべきで、ピクトリアルに構成すべきではない”といったピュージン以来の原則が、 建前としては、非常に正確に実践されている。
内部空間の各部屋に対し適切な位置に窓があけられている。
しかし建築家はプランだけで考えていたわけではない。 内部から外部へとデザインすることと、外部から内部へとデザインすることが、ふたつの力の転換点‐壁-で出会う。 内部は外部に表現されなくてはならないという、近代建築の教義にもなった、 単純で健全な考え方。しかし、実際に建築をつくるという作業はそんなに簡単ではない。
転換点‐壁-で起こる矛盾からこそ優れた建築が生まれる。機能と空間の、内部と外部の、力と力の出会いにおいて建築は始まる。
時には内からと外からの矛盾から、スペース・イン・スペースとかポーシェ poche とかのヴォキャブラリーがひねり出される。 内部は外部に表現されるべきである、という命題は、十九世紀の一部の才気のみられない折衷主義的な、 またピクチャレスクな建築へのアンチテーゼとはなり得ても、建築の方法論とはなり得ない。 この命題通りに設計を行なえば、真実の建物ができるほど、事は単純ではないはずだ。この命題の次の段階の作業が重要なのであって、 そこが、建築家個人で違ってくるところである。
内部と外部のぶつかり合いが建築になる。そここそ建築家の力量の問われるところである。
マッキントッシュのここでの方法は、全体の構成は、あくまでも学校側の機能的要求を忠実にまもること、 そして細部においては、ヴァナキュラーな先例、同時代の建築家の形態の用法、自らの開発したグラフィカルな形態、 など、彼がそれまでに吸収した情報へのレファランスを総動員して、内部と外部の出会う場所たる立面の構成を行なうことである。
部分立面図 校長室

特に校長室の内部と外部の力と力の出会いによる外壁の構成には、そのことがみえる。
アプローチ階段及びエントランス・ドアの真上には、東立面の一階スタッフ・ルームのアーチのついた窓と同じモチーフの大きな窓があり、 この窓のアーチに対応して、内部にはアーチに合わせた天井のついたアルコーヴが出来ている。 (上図右) ヒル・ハウスの寝室のアルコーヴと同じ系統のスペースのつくり方である。
このアルコーヴをつくっているのは隣接する校長室用の洗面所である。 洗面所の出窓は、外部では1階の守衛室の出窓に対応して、 一体のヴォリュームをつくっている。 (下図−但し2期工事後2階平面図)
出窓のヴォリュームは、2階で一旦終り、校長室から校長のスタジオに上る階段室の塔になってもう一度現われる。 3階の校長室のスタジオは壁面から一歩下がってプライヴァシーを守ると共に、それによって 階段塔を際立たせている。また校長室のアーチの窓へのプライヴァシーの確保は、横長のバルコニー兼庇を出すことで行なわれる。 このバルコニーはスタジオの窓と窓の間の、エントランスを構成する壁面一杯に広がっている。
このようにエントランス部のエレヴェーション処理は、内部と対応させながら、非常に微妙な視覚的操作を行なっている。
シンメトリーでなさそうに見せながら、実は2階の手摺をシンメトリーにしたり、エントランス・ドアは中心からズレていそうで、 実は中心にあったり、出窓のヴォリウムは、上から下まで通りそうでいながら実は一旦分断される。垂直の軸線もまた揃っているようで、 実際はずれている。 (上図左)
一回一回の細部の決定には法則性が見られない。
全ての決定行為はひどく微妙で、しかもなおこの決定行為には現則性がない。
規則性に捉われるのを嫌って、前の決定行為で確立されそうになった規則性は、 次の決定行為では、故意に崩そうとする。
決定行為の依り所は、常に一回限りのものである。そうした態度が、マッキントッシュの設計行為には常にある。 大変なエネルギーを要する仕事である。
この正面のエレヴェーションにあふれる緊張感の依って来たる所は、こうした設計行為にある。
2階平面図
4-5.ソリッドな石とアイアン・ワークの表層

 美術学校の構造は、基本的には石造と煉瓦造である。 北面、東面、西面はこの地方の産の灰色の石による石造、南面だけは煉瓦造の上にモルタルを塗り、その上に砂利、 砕石や小石を吹付ける、一般にラフキャストと呼ばれる仕上をしている。内部の耐力壁は煉瓦積みである。
梁にはスチールのラティス・ガーダーか、鋳鉄の梁が使われている。大スパンの部分ではこれらの梁を、 メタル・ラスにモルタルでくるんでいる。
スタジオの11メートル近くの大スパンの梁は30×60センチメートルのラティス・ガーダーで、 スパンを3分割した位置に小梁が入り、その上に木造の床が、載っかっている。スタジオの間仕切りは木製のパーティションである。 従って奥行一一メートル近くのスパンは、エントランス部分の両側を別にして、耐力壁が全くないので、 部屋は望みの大きさに自由に分割できるようになっている。
屋根は基本的にはフラット・ルーフで、木製の骨組の上にアスファルト防水が施されている。スタジオの上の庇部分は、 鉛の板材で葺かれている(英国では、現在も鉛や亜鉛の板材が、その加工しやすさからよく屋根材に使われている)。
斜めのトップライト部分には、マッキントッシュ特有の、野太いトラスが組まれ、その上にガラスが架けられている。
基礎と地下一階、地下二階は、鉄筋コンクリートで、スラブ厚15〜17センチメートル。上階のスラブは全て木造である。 北面ファザードにある、スタジオの窓は石造の建物としては、相当大きい方で、二種類あるスパンの大きい方の開口部は、6メートル近く飛んでいる。 そのため2階の窓のまぐさには、鋳鉄製のボックスビームが使われ(一階の窓のまぐさは鉄筋コンクリートである)(下図右)、 そのサイズは60×75センチメートルもある。またサッシュは木製である。 そして、この大きな窓には、目を魅かずにはおかない、鉄製のブラケットがついている。


フェンシングの剣を逆さにしたような形のこのブラケットは、一つには、この大きな窓のブレーシングの役目を少し受け持っており、 なおかつ窓のガラス拭きのとき足場になる板を渡すためのものであると、機能的には説明されている。(下図中)
しかし、このブラケットの意味は、 単にこうした機能的な意味だけに留まるものではない。これについてペヴスナーは次のように言っている。
“この金物の線の列は、マッキントッシュの最も重要な性質の一つ、すなわち彼の空間価値に対する強烈な感情を表すのである、 われわれの目が、建物のソリッドな石の壁面に到達する前には、 まず持送り金物によって示される空間の第一層を通過しなければならない。 同様な純粋空間の透過性は、すべてのマッキントッシュの重要作に発見されるはずである。”
ソリッドな石の壁面に到達する前の、鉄製の金物による層(レイヤー)。ペヴスナーは道に面した、 地下一階のスカイ・ライトを保護する為の、フェンスとその上の植物的な装飾も含めて、 この第一層という言葉を使っている。もちろんエントランスの上にあるバルコニーの手摺についても言える。(下図右)
これらアイアン・ワークは、単なる装飾として片付けられない意味を持っているに違いない。 フィルターとしてのアイアン・ワーク。表面のレイヤーとしてのアイアン・ワーク。重層性(レイヤーリング)、表層性。表面の毛深さ。 面、あるいは量塊としての石の壁面と、線材としてのアイアン・ワークの表層の付加。
  こうした層を重ねる手法は内部空間にも見える。平坦な壁面に、線材による表層としてのフィルターを付加しようとする傾向は、 さまざまなところで見受けられる。例えば、第二期の図書室ではそれが顕著にあらわれる。 特にギャラリー部分の扱い等に見られるが、これについては第二期工事の所で触れようと思う。
ブラケット ブラケット 大窓の丸面
4-6.現場での変更

マッキントッシュは、現場に入ってからの変更、修正を相当程度行なったということが言われている。 1896年にデザインされたものに近いと言われている北立面図と、実際の建物を比較してみると、 変更や修正が少なくなかったことが明白に分る。その中で東半分の第一期工事竣工までの間に行なわれた変更についてみていきたい。
10年近い年月を経た第二期における変更ほど大きなものはないが、 工事期間にも、マッキントッシュが執拗に細部にこだわっているのが分って面白い。
校長室から、校長用のスタジオに登る私用階段の取り込まれている塔は、 当初最上階のパラペットの上で初めて独立した塔として突き出していて、パラペットより下は外壁面と一致していた。 変更後はこの塔の形をもっとアーティキュレートさせるために、パラペットの下、スタジオの窓のまぐさの下端までの壁を、 この塔の壁面を残して微妙に一段後退させている。また校長用スタジオのバルコニーの手摺壁は、 当初の図面では、両端で曲線を描いて立ち上がっていたのを、左側だけにしている。 そしてこの私用階段のために、小さな縦長の窓が附け加えられている。
校長室の方のバルコニーのアイアン・ワークの手摺も、最初の図面では何の変哲もないが、出来上がったものには、 スタジオの窓のブラケットに呼応したブラケットが付き、端部では手摺のラインも微妙な曲線に修正されている。 (下図左)

エントランス・ドア上部のまぐさは、最初単純なキーストンがついていたのだが、グラフィカルな曲線で構成された独特のまぐさに変更された。
これについては、マッキントッシュが事務所で石膏を使って、このキーストンの原寸模型をつくって検討していたことを、 ウィリアム・モイエスという当時、マッキントッシュのドラフトマンとして働いていた人が、ハワースに語っている。



スタジオ上部のフラット・ルーフの前面には最初パラペットが存在し、コーニス状のものが図面上で確認できるのだが、 施工中に取り去られ、パラペットなしで庇が木製のブラケットの上にのるという、 処理方法に変更されている。
地下のスカイライトを保護するためのアイアン・ワークのやはり変哲のないフェンスも、大幅に変更され、 北面を構成する重要な形態要素になった。
さらに微妙な変更がある。それぞれのスタジオの大窓の両脇の直角のコーナーが気に入らず、 すでに第一期工事が完成した後であるにもかかわらず、マッキントッシュは石工を呼び戻して、シャープなコーナーに全て丸面をとらせた。 (下図右)
どんなに小さなことでも最後まで決して諦らめない。モノへの徹底した執着がここには見られる。 マッキントッシュはつねづね、建築家の図面は、一つのアイディアのラフな指示に過ぎないことを表明していた。
彼の意見では、工事の進行に伴い、随意に修正する自由をデザイナーはもつべきなのであるという。
この考え方は、ラスキンやモリスの中世社会の創造過程を理想視する見方に、どうもその源があるらしい。 中世の社会では、マスター・ビルダーが、大体のアイディアの枠組を示し、その指示内で熟練した職人たちが、 おのおの創造の余地を含んだ力を、与えられた範囲の中で発揮していた。
しかしこのヴィクトリア朝の時代には、たとえ熟練した職人がいたとしても、コスト的にも、創造的行為を行なう場所の余裕も、 彼ら自身には理想的な中世社会ほどには求められなかった。従って建築家自身が、現場において職人達と共に検討しながら、 細部を修正、変更していくべきであるという考え方に至ったのである。
こうして、マッキントッシュは、建設の過程で、微妙な細部に至るまで、変更、修正することを躊躇しなかった。 こうしたマッキントッシュの設計態度は、二期工事に至ってより強く現われることになる。
エントランス廻り スタジオ窓
4-7.設備計画

ペヴスナーは、あれほど何度もマッキントッシュのことを書いているのだが、美術学校の環境設備については触れていない、とレイナー・バンハムは言う。

僕が働いていたHKPA事務所や、GLCにおいても、ダクト方式の暖房は行なわれていなかった。 通常の方式は多分温水か蒸気のラディエターが置いてあるだけで、換気は窓をあけることによる自然換気である。 ロンドンの古い建物では大体において、僕の知る限りではこれが普通であった。
イギリス人は、何かというとすぐ、空気がスタッフィだから、窓を開けようと言いながら、非常にまめに窓をあける。 GLCもHKPAの建物も両方とも、かなり古いせいかも知れない。
そう言えば、GLCのアイランド・ブロックという新しく建てられた増築部分では、空調がされていたような気がする。
グラスゴー美術学校にダクト方式の暖房と換気のシステムが、設計の最初の段階から取り入れられていたということは、 その当時他に例がなかったわけではないから、必ずしも革命的とは言えないが、新しいことだったには違いない。
また少ない予算とさまざまな制約を考えると、マッキントッシュの建築に対する健全な考え方の一端を見ることが出来ると思う。



北面のスタジオには、大きな窓があけられており、北国グラスゴーでは、相当な寒さが予想され、しかもこの部屋では、モデルによるデッサンが行なわれる。 それを考えてマッキントッシュは設計の最初の段階から暖房と換気システムを考慮し、煉瓦壁の中に縦方向のダクトを埋め込んで計画している。
そして地下2階の中央廊下には、ボイラー室とその隣のファン・ルームからの温風をその縦ダクトに送り込むため、 廊下一杯の幅で、1.8メートルの高さのダクトが走っている。このダクティングは、ほとんどの部屋をサーヴしており、 また北側のスタジオの窓際には、補助的にラディエターが設置されている。 (下図地階平面図)
しかし後年、温水のラディエターによるシステムに変換されて、現在ではこれらのダクトは使われていない。 バンハムはこれによって、マッキントッシュのこの傑作の空間の巧妙な手法の一部を、視覚的に壊していると、非難している。 彼はさらにこのダクトが不十分にしか働かなくなったのは、最初の設計が悪いのではなく、維持管理が充分ではなかったからだと指摘している。
いずれにしても、マッキントッシュが、やろうとしていたことは、単に視覚的な喜びを得るためだけの作業ではなく、 建築家としての健全な環境に対する考え方も含めた、非常に実務的な、そして総合的な設計作業であったことの例示を、このダクト・システムは物語っている。
地階平面図
5.美術学校二期工事へ

5-1.最も充実した期間

  こうして第一期工事は、1899年の末に終了した。 美術学校に残っている記録によると、第二期の西翼の設計変更の委託がマッキントッシュに出されたのは1906年9月のことである。
また同じ記録によれば、 建築家が、この増築計画を終了したという報告を、スコットランド教育局に提出したのは、1907年9月25日という日付であった。 また墨入れされた西翼の変更図面が発見されているのだが、この図面には現在の状態と同じエレヴェーションが描かれていて、 1907年5月という日付が入っていた。
こうして西翼第二期工事の再計画が行なわれたのは1906年9月から1907年5月頃まで位の期間であったことが推定されている。 この第二期工事までには、従って第一期工事終了から6年近く、またコンペの時点から数えれば10年の年月が経過している。
この期間はマッキントッシュにとって、建築家として最も充実した時期であった。 またマーガレット・マクドナルドとの結婚もあって私生活においても、幸福な期間であった。 この間にほとんどの重要作が設計されている。
これらのほかにもミス・クランストンのためのティールーム群を初めとする、いくつかの内装のデザインが行なわれている。
これらの中では、 グラスゴー美術学校の第二期工事へと繋がって行く、マッキントッシュの成熟の過程として、 美術学校で結実する、いくつかのヴォキャブラリーが試行されているという意味では、 クイーンズ・クロス・チャーチとスコットランド・ストリート・スクールが特に重要だ。
クイーンズ・クロス・チャーチは、美術学校第一期の直後、スコットランド・ストリート・スクールは美術学校第二期の直前という具合に、 時期的にも第一期と第二期のマッキントッシュの考え方や、手法の微妙な相違が見てとれて面白い。



《実施された建築》
●クイーンズ・クロス・チャーチ Queen's Cross Church
 設計1897年、竣工1899年
●ラックヒル・ストリート・チャーチ・ホール Ruchill Street Church Halls
 設計1898年、竣工1899年
●ウィンディヒル Windyhill,Kilmacolm
 設計1899年、竣工1901年
●ゲイト・ロッジ Gate Lodge,Auchenbothie
 竣工1901年
●デイリー・レコード・ビルディング Daily Record Building
 竣工1901年
●ヒル・ハウス Hill House,Helensburgh
 設計1902年、竣工1904年
●スコットランド・ストリート・スクール Scotland Street School
 設計1904年、竣工1906年
●モサイド Mosside
 竣工1906年
●オーキニバート Auchenibert
 竣工1906年
《プロジェクト》
●1901年のグラスゴー博覧会設計競技
 International Exhibition Buildings Competition 1898
●芸術家のカントリー・コテージ  An Artist's Country Cottage 1900
●芸術家のタウン・ハウス  An Artist's Town House 1900
●芸術愛好家のための住宅設計競技  Haus eines kunstfreundes 1901
●リヴァプール・カシードラル設計競技
 Liverpool Cathedral Competition 1903
3階平面図
5-2.第二期の設計変更

第一期の計画では、2階から1階に通じる避難階段は、前述のエントランスの延長線上にある主階段唯一つしかなかった。 さらに悪いことに、この階段は前述の通り木製である。 市当局は、最初これを見過していたのだが、第二期工事においては、東西の両翼それぞれに、 耐火構造の階段室を設けることを余儀なくされた。 左右対称の位置、西翼では図書室の隣り、東翼では、当初の計画におけるデザイン・ルーム(現在はマッキントッシュ・ルーム)の隣りが、 最も適した位置であることは明白だった。 (下図左)
第1期で完成していた2階の会議室には、東西の両壁面に一対ずつの湾曲した窓がすでにあった。 つまり東立面の2階部分の南よりに見られる一対の窓と同じものが、反対側の外壁にもついている事になる。 ここでマッキントッシュは、この一対の窓を取り除く代りに、階段室の方の段をこの窓の湾曲面に合わせて、削り取って浮かすという処理を行なった。 窓の方はそのまま残され、この階段室に不思議な効果をもたらした。 (下図右)


なにしろ踏面を突き抜けて、縦長の湾曲した窓が階段室側にわり込んできているのだから。
ロバート・マクラウドによると、アーツ・アンド・クラフツの、建築の設計を一つの社会的なドキュメントとしてみる原則、 すなわち“設計しようとする建物が生成するための、さまざまな必要事項についてだけでなく、 その生成する過程や、変更の過程における状況の変化についても、その設計された建物の中で、社会的なドキュメントとして語らせなければならない” という原則に従って、マッキントッシュはこのウィットに富む処理を行なったというのである。
マッキントッシュの設計方法には、問題を整理して何とか消し去りあるいは胡魔化して単純化しようとするのとは反対の態度が見られる。 設計過程で問題が出てきた時には、そこから逃れず、胡魔化さず、普通であればマイナスの要因を、むしろそのまま露呈させ、 残すことで逆にプラスの要素に転化していく。マイナスの要因を自身のデザインの起爆剤にしてしまう。
マッキントッシュ・ルーム 階段室

設計変更による新たな解決策の提示は、建築家にとって常に要求されるものだが、大抵の場合、マイナスの要因となり、 妥協の結果変更前よりもコンセプトの曖昧なものになってしまうのが常である。
マッキントッシュは逆にそれを利用して、新たなコンセプトに結びつけて行く、しかも楽しげに。この恒常的な強靭さは驚嘆に値する。 二つの避難階段の新設は法規上の要求事項から起きた大きな変更であったが、第一期から第二期への時間の経過は、 学校当局からの新たな機能上の要求事項をも、いくつか引き起こした。その一つは、結果的に「ヘン・ラン」 the hen run と、 のちに学生達に呼ばれる通路が生み出されることになる変更である。 (上図3階平面図)
その要因は、学校側の要求による、屋階(アティック)、つまり3階のスタジオ部分の追加である。 このアティックのスタジオ部分は、 中心部の校長用のスタジオ(これはもともと屋階を占領しているので)を除く、 建物前面全体にわたっている。
経済的理由と、当然なるべく軽くという構造的理由によって、この部分は木造である。 北壁面から一段下がっているので、結果的にはレンフルー・ストリートの道路レヴェルに立って見上げても、見ることが出来ない。 この一段下がることによって出来た二階のスタジオの屋根のスペースには、北立面の大窓に合わせた位置にスカイライトが、その数と同じだけあけられている。
マッキントッシュは、このアティックのスタジオには、一段下げることによってだけでなく、 1、2階の大きな窓割りとは異なる細かい窓割りを全面に施すことによって、1、2階とは全く違う表情を与えて、 すでに1896年の立面で完成していた北立面のプロポーションを崩さないようにしている。 というよりも、この窓割りの表情の変化によって北立面をより豊かなものにしている。
3階平面図、北立面図、断面図参照
ロッジア ヘン・ラン
5-3.南立面の持つ意味

このアティックのスタジオの附加によって生じた困った問題は、東側のアティックと西側のアティックが、 既に在る校長用のスタジオによって分断されて行き来が出来ないことであった。 全体に廊下を通すことは、東側の2階の廊下の屋根に、スカイライトがあるのでしたくない。
マッキントッシュは西側図書室の上のコンポジション・ルームの隣りの階段からまず2階の廊下の上に “ロッジア”と呼ばれる煉瓦のアーチで構成された室を伸ばした。 “ロッジア”には三つの片持ちの出窓が附加され(この出窓の位置は2階の三つのアルコーヴと一致している)、 煉瓦造のアーチと相俟って他の部分とは雰囲気の違った独得の空間を形成している。現在、この煉瓦壁には白ペンキが塗られているが、 もともとは、粗い煉瓦壁が露出されており、より粗々しく重量感のある空間であった。 (上図左)
とにかくこのロッジアについては、2階の廊下の両側の壁によって支持することができるので問題ない。 問題は、校長用スタジオの背後の部分で東西翼をどう繋ぐかである。というのもこの部分には、 断面を見ると分るが二階のミュージアムのスカイライトのトラス屋根が突き出ていて、また廊下の外側の壁を受ける壁は、二階部分にはない。

ここでマッキントッシュは、ただ問題を解決しただけでなく、目覚しい空間 を創出したのである、またしても楽しげに。これが「ヘン・ラン」である。 ここもやはり軽い木製で、高さ90センチメートルの腰から天井まで細かい正方形の窓割りのガラスの箱で、 電車を連想させるような格好をしている。 (上図右)(下図左)
両端はミュージアムのパラペットによって支持され、 中間部分は校長用スタジオの自立する壁から出ている鉄製のブラケットで支えられており、 断面で分る通り、ガラスの箱が宙に浮いてスタジオのラフ・キャストの自立する壁に取り附いた形になっている。
さらに端部ではガラス面は微妙に湾曲し腰が消え床までガラスの壁になっている。 またミュージアムの両端のパラペットのうちロッジア側は、北側のスタジオのパラペットの高さまで立ち上がって、 ロッジアの屋根のレヴェルから半円のアーチの開口をつくっている。
本体の方の壁のヴェンティレーションの為の開口に合わせて、小さな正方形の四つの孔が、アーチの上に並んで穿たれている。
こうしてマッキントッシュは、どこまでも細部をないがしろにせず、全てをデザインしつくす徹底的な発明の作業を楽しげに続ける。
ヘン・ラン 温室
これをマイナスの要素をプラスに転化する作業と形容したのでは充分ではないだろう。 新たな法的な要求、機能的な要求を、マッキントッシュは、新しいヴォキャブラリーを附加し、 建物をより豊かなものにするための踏台として大歓迎しているように思える。
どこにも手を抜いた部分が見られない。あらゆる細部には、彼の手の跡が徹底的に刻み込まれている。 この密度の高さは並大抵のものではない。
アール・ヌーヴォーの特色である、 全体を個人的な単一のスタイルで覆い尽くそうとする態度とは無縁である。つまりマッキントッシュはアール・ヌーヴォーの一派閥ではない。
部分は部分だけで独立しており、それぞれの部分の空間は、異なるヴォキャブラリーで、それぞれ細心の注意を払って設計されている。 決して建物全体を貫く形態的法則に従って設計をしていない。全ての部分で一からスタートして設計している。
1896年の時点で、ほぼシンメトリカルにデザインされていた南側のエレヴェーションは、こうして第二期の設計変更の段階で、 “ヘン・ラン”を初めとするさまざまな要素の附加によって、大きく変わっていった。
ジョン・ソーン卿は、その講義録の中で次のように形容していた。
“他の芸術、絵画や彫刻における(自然の)模倣とは反対に、建築は純粋に発明(インヴェンション)の芸術であり、 この発明は、人間の精神にとってもっとも苦しい、もっとも困難な作業である。”
南立面にはたとえばもう一つのインヴェンションの例として、キャンティレヴァーの温室がある。 図書室の上のコンポジション室(フラワー・ペインティング・ルーム)と、階段室の壁に挟まれた入隅部に、 マッキントッシュは4、5m迫り出している片持ちの温室を附加した。 地上24メートルの位置にあるこの温室は、ロッジアから見渡す広大なグラスゴーの街の屋根の連なりと、 グルーミーな空の風景の中に、跳び出し浮んでいる。
(上図右)
休みのないインヴェンションの種々雑多な集合とも言える南側のエレヴェーションには、それでもなおかつ不思議な統一感がある。 それは全体的なコンセプトでつくられた故意の統一ではなく、部分への徹底的な執着から生まれた不思議な統一感といえる。
南側の立面は、この意味で、この美術学校におけるマッキントッシュの設計姿勢をもっともクリアーな形で露呈している。
南立面図
5-4.図書室と西立面

美術学校の内部は、校長室や、もとのボード・ルーム(現在マッキントッシュ・ルーム)の白い印象の部屋を除くと、 他の部屋は殆ど仕上をしない素材のままの壁に囲まれており、 特にダーク・ブラウンのステインを塗られた柱、梁、羽目板で覆われた部屋は黒っぽい印象が強い。
機能上の要請から、建物の全体構成が南に背を向け北側に大きな窓をとったためもあって、スタジオやヘン・ラン等の例外を除いて 全体的に薄暗い空間が多いのだが、内部の黒っぽいステインが余計にそれを助長している。 スカイライトからの光も、北国の光は弱く、カッと明るい太陽光線は入ってこない。
近代建築の技術主義的な傾向は、一方で空間から闇を抹消し、影のない効率的な均一空間をつくり出した。 美術学校にみられる、この一種の薄暗さは、近代建築の明るい空間を見慣れた僕らを引きつける一つの要因になっているのかも知れない。



谷崎潤一郎「陰翳礼賛」の中で言及している、日本家屋にかつて存在した「眼に見える闇」の感覚の意味を僕らは忘れてはならないだろう。 こうした「陰翳」のつくる空間意識を考えるうえで、ガウディによるバルセロナのコロニア・グエル教会の地下聖堂の闇と、 このマッキントッシュの美術学校、特に第二期の図書室は僕らに少なからぬヒントを与えてくれるような気がする。 三度目にグラスゴーを訪れたのは、たまたまバルセロナのガウディを見た、わりとすぐ後だったので、 ガウディの建築の中で最も感銘を受けた地下聖堂と図書室を比較してしまった。
コロニア・グエルの地下聖堂の一見恣意的に見えるが、 実は規則性のあるあの傾いた柱の群と、第二期の変更で床から天井まで真直ぐに伸びることになった、ステイン塗りのこの図書室の柱列とに、 はっきりは分らないが、同じような役割があるような気がしてならない。 柱は樹木のアナロジーとしてイメージしやすいからか、どちらの空間においても、薄暗い森の木々の間に居るような奥深く静かで穏やかな感じを受けた。
図書室 図書室
図書室の平面は、1896年の時点では、クイーン・マーガレット医科大学のミュージアムや、 マータス・スクールのドリル・ホールなどで彼が好んで使った楕円形をした吹抜けのある回廊空間(ギャラリー)の基本的な構想しか示されていない。 従って西立面も現状とは全く異なった様相を呈し、東立面のモチーフを、もっと弱めたもので、緊張感のないものになっている。 第二期の設計変更の中で、この図書室とそのエレヴェーションである西立面は、最も目覚ましい変化を遂げており、 またこの間のマッキントッシュの嗜好の微妙な変化を最も露わに示している。
第一期の計画では、この図書室のあるブロックは、二層で高さも他の部分と同じであったが、設計変更により、東翼にあったレクチュア・ホールが地下一階に、 建築科教室が一階に、そして図書室が階高の高い二階部分を占め、三階にはコンポジション・ルームが設けられて、 最終的に、ここが建物全体で最も背の高い部分になり、エレヴェーションにおいても、一番聳える形になった。 平面的には、ほぼ35フィート、つまり約10.5m角で、断面を見れば分る通り東西方向に鉄骨の梁が、 北面のスタジオ同様スパンを三つに分割している。(下図断面図右)
このスパンは真中が少し狭く約3.3m、両脇が3.6mという具合に微妙に違っている。 この東西方向の鉄骨の梁の上に、図書室の木造の柱が各四本ずつ二列にのっかっている。 断面的には、北面のスタジオの階高を三等分して、下からそれぞれ図書室下部、ギャラリー部分、倉庫になっていおり、 従ってギャラリーも含めた図書室部分はスタジオの三分の二の約5.1mの天井高になっている。 また、ギャラリーの幅は2.4mなので、柱の位置との間に1.2mのアキが出来る。 こうして柱がギャラリーの先端から浮いたことにより、この空間ははるかに豊かなものとなった。
1896年の図面では、 この柱は幅広のギャラリーのスラブの先端よりうしろにあったので分断され、吹抜けはむしろスラブに開いた楕円の孔という感じであったが、 設計変更で柱がギャラリーから独立して天井まで通ったことにより、新たにさまざまな形態的な操作が必要となり、さらに新しいインヴェンションが生まれた。 ギャラリーを支える木造の梁は―他の部分でマッキントッシュが好んで使う手法であるが―合せ梁となり柱を挟み、 柱の方もこの梁を支持するために両脇に添え柱が加わって幅広になっている。
断面図
ギャラリー手摺壁と柱の間にはワゴン・チャンファーの施された手摺子と、また手摺壁の部分には、 クイーンズ・クロス・チャーチに使われた彫り物の施されたペンダントという二つの装飾モチーフが見られる。 この角材の角を削ぎとって赤、緑、青、白で彩色したワゴン・チャンファー(Wagon Chamfre)という装飾モチーフは、 イングランドには昔からある意匠であるらしい。もともとは駅馬車(コーチ)や荷馬車(ワゴン)のための建物に使われたもので、 マクラウドによるとレサビーやブロムフィールドといったアーツ・アンド・クラフツの人が原動力となった、 ケントン・アンド・カンパニーという会社の家具や建築の装飾モチーフとして導入された物である。 (下図左)
吹抜けの部分に手摺壁から木製のタピストリーのようなペンダントが下がっている。手摺壁の下端から突き出た部分には、 算盤の玉のような模様の透し彫りが施してある。そのパターンは少しずつ微妙に違えられていて、どれ一つ同じパターンがない。 (下図中)
どれ一つ同じパターンがないと言えば、美術学校に使われた装飾パターンにはそういうものが多い。
北面のレンフルー通りに面したフェンスの支柱(スタンシオン)の上に取り付けられた刀の鍔(つば)のような形をした アイアン・ワークの華頂(フィニアル)は、全部で八つあるうち、三つだけが繰り返されている。 従って全部で五つの異なるパターンで出来ている。 (下図右)
また前述した窓の補強も兼ねた 籠形の刀の柄(バスケット・ヒルト)みたいなブラケットも、いくつかのヴァリエーションで構成されている。
地下のスタジオの木造屋根の水平部材を受ける鍛鉄のT字梁は、約1.8m毎に壁から突き出ているのだが、 この先端には結び目のような細工が施してある。これがまた七種類の違うパターンで細工されている。 マッキントッシュは、こうした職人の手技を示す所には、徹底的に手の跡を刻印しようとする。 この予算の限られた建物でこれだけ原則を曲げずに、やり通すには相当の抵抗があったと考えられる。実際、職人の側からも抵抗があった。 上記のT字梁の先端の複雑な細工のため、鍛冶職人はストライキを起こしてしまう。
こうしたストライキは、 東翼の二階の廊下部分のスカイライトのための天井のS字曲線(オジー・カーブ)を描く孔のプラスター塗り作業においても起こった。 どちらの場合もストライキはおそらくニューベリーの助力で収拾され、マッキントッシュは思い通りに事を運んでいる。
職人に対してばかりでなく、施主である学校側との間にも、資金的な問題ばかりでなく多くの軋轢があったことが予想される。 こうしたものをマッキントッシュが押し通した影には、校長ニューベリーの絶大な支持と援護があり、 彼がいなかったら不可能なことであった。また同時にこうした妥協を許さないマッキントッシュの姿勢がもしかしたら彼の挫折の原因なのかも知れない。  
ワゴンチャンファー ペンダント フィニアル

図書室の柱やワゴン・チャンファーなどによって感じられる垂直性は、照明器具にも反映している。鎖によって、 高い格天井から吊り下げられた、このランプ・シェイドの重そうな印象は、図書室空間に垂直性と深い陰翳を与える。 ミュージアムのスカイライトの下にある白く軽やかな照明器具と対照的に、黒く重そうな照明器具は、天井近くに漂う薄い闇を突き抜けて、 拡散しない下向きの光だけを放ち、この空間の構成に大きな役割を演じている。 (下図左)
このランプ・シェイドは、真鍮製の上に黒色の塗装で、大小二種類の微妙なヴァリエーションによって構成されている。 中心に大きい方のシェイドが五つあり、その外側に八個の小さめのシェイドが取りまいている。天井には同じ形のシェイドが鎖なしで12個、 合計13個のペンダントの鎖の固定位置の周囲に取り付けてある。(下図中) この器具はギャラリーの窓際の所にも単体で吊ってあり、図書室内の照明器具はこれだけで統一されている。
垂直性を強調するもう一つの要素は、西面の窓の扱いである。この窓は第一期において東立面に最初に現れ、 北正面のエントランスの横にも現れた、張り出し窓(オーリエル)のモチーフが、マッキントッシュ独自のものに発展、昇華したものである。
こうした張り出し窓は、イングランドのヴァナキュラーな住宅によく見られるモチーフであり、マッキントッシュはイングランドへの旅行時、 しばしばこのモチーフをスケッチ・ブックに納めている。
たとえば、1895年に描かれたドーセット州ライム・レジスの家のスケッチには、 美術学校のエントランスの左の一階事務室と校長室をつなぐ張り出し窓に非常に良く似た二層分のオーリエルが見られる。 1894年のワーセスター州チッペン・カムデンの住宅のスケッチにも同じようなオーリエルを見ることができる。
この他にもマッキントッシュのスケッチ・ブックには、似たようなオーリエルが幾つか現われる。彼は前にも見たように、 自身のスケッチ・ブックから何度も形態モチーフを引き出してきて、設計する建物に転写する。 彼のスケッチ・ブックは、それだけで、絵としても素晴らしく自立しているのだが、 彼は一面でこうした目的をもってスケッチをしている。
第一期正面では、生の形で転写されたオーリエルのモチーフを、第二期の図書室において、 マッキントッシュは大きく変換し、完全に自己のものとして、第一期とは異なる新しい意味を加えた。

ランプ・シェイド ランプ・シェイド配置 シリンダー
“(芸術家は)自身のために適切な表現過程を創造するために、技術的 発 明(インヴェンション) の才能を所有していなければならない― とりわけ、自然が彼に提供するさまざまな要素を変換するために、 この発明の才能の助けを必要とする―そして、それらのものから新しいイメージを組み立てなければならない。”

マッキントッシュは“適切さSeemliness”と題して、自然から得た形態の単なる転写を超える、変換を目指す考え方を書き記した。 この文のあとに彼は次のように続けた。

“芸術家は、非常に豊かな精神の機構―本質を楽に捉える力、見究める眼力―多岐に亘る才能―を備えている。 しかし彼を他の人から際立たせ―そして彼の素質の有無を決定する―ものは、 異常に発達させられた想像力(イマジネーション)である―それは描写するイマジネーションばかりでなく― 特に創造するイマジネーションである。 芸術家が持っている、彼自身にさまざまな対象を描写して示す能力は、 彼の作品の幻想的な性格―それらの対象に充満する詩―そしてそれらの対象がシンボリズムに向かう性質― がどこから来ているかを説明する。しかし、創造的な想像力(クリエイティヴ・イマジネーション)はそれよりずっと大事なものである。 発明の才能を最高度に備えていなければ、芸術家は彼の芸術を征服することはできない。”


美術学校第一期と第二期の中間の時期に書かれたと思われる、この意図、自然から得る要素の変換、 創造する想像力(イマジネーション)を、彼はこの第二期の図書室とその立面において達成しつつあった。
図書室部分の三層にわたる縦長の窓は、今や自然、つまりヴァナキュラーな民家のオーリエルの写しではない、 マッキントッシュの到達点を示す創造的想像力の具体化である。
外部と内部の拮抗から生まれた、 表層の概念、ポーシェに近い空間が、ここにはある。 このオーリエルは一階からギャラリーを突き抜け、さらにはその上の倉庫階にまで伸びる。
ギャラリーはオーリエルのネガの形に削り取られ、ワゴン・チャンファーの手摺が付け加えられ、 倉庫部分も同じように外側の窓の裏返しの窓を付け加えられる。(上図右、下図中)
外部と内部の裏返し、矛盾がここに現われ、拮抗が緊張を生み、一つの知的な形態操作が、空間の陰翳にまで高められている。
スコットランド・ストリート・スクールの階段室のイメージは、この窓の準備段階にはなったかも知れない。 しかし、この準備段階の単なる縦長の窓から、この図書室のオーリエルが生まれる間には、一つの跳躍、意味の転換がある。
この西側立面と図書室空間の陰翳、あるいは別の意味では緊張感は、マッキントッシュが、 10年かかって繰返し繰返し試してきた形態モチーフ、空間概念、形態の用法を、その繰返しの中で、すっかり自分の手に馴染んだものにし、 一旦全てを忘れ去り、無心のうちに跳躍して得た到達点である。
南西コーナー オーリエルのネガ 西立面
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U.SIR EDWIN LUTYENS(1869-1944)
ラッチェンスのカントリー・ハウス―軸線と迂回―

1.マッキントシュとラッチェンスの接点

ロンドンのHKPAという事務所で働き始めて最初の休暇、1973年のイースター・ホリデーに、マッキントッシュの建物を見に、グラスゴーを初めて訪れた。 その旅行の途中、友人に薦められ、リンディスファーンという島で一泊した。
キリスト教がアイルランド、イングランドにもたらされたのは5世紀、6世紀頃で、土着のケルト人社会の信仰と融合し、各地にケルト・キリスト教の修道院がつくられた。
スコットランドの島アイオナがケルト修道院の一大センターとなり、そこから聖エイダンという僧が招かれて、このスコットランドに近い辺境の地、リンディスファーンにケルト修道院が開かれた。
修道院は廃墟になっているが、聖地として今も人々の信仰を集め、ホーリー・アイランドと呼ばれている。




そんな予備知識もなく、来たばかりのイギリス、どんよりとした曇り空の下、羊が草を食む荒涼とした風景の中に、 ぽつんと屹立する城の姿を、そして一日に二回、干潮の時にだけ、本土と地続きになるという話を今も懐かしく思い出す。
1903年頃、ラッチェンスの最大のパトロン、エドワード・ハドソンがこの城を手に入れ、改築をラッチェンスに委嘱する。
それより少し前1893年と1901年に、マッキントッシュはこの島を訪れ、城のスケッチを何枚も残しているのだ。
もしかしたら、ホーリー・アイランドと呼ばれるこの島は、同じ時代を生きながら、ほとんど接点のなかったこの二人の建築家が、 すれ違ったかもしれない唯一の場所であった。
リンディスファーン マッキントッシュのスケッチ
2.対照的な二人

ラッチェンスの名前を初めて目にしたのは、1969年に美術出版から“建築の複合と対立”として翻訳出版されたロバート・ヴェンチューリの本の中ではないかと思う。 ヴァンブラやホークスムーア、そしてソーンの名前も同様にこの本の中で初めて知った。
この本はしばらくの間、絶版になっていたが、伊藤公文の新訳によって、 原題"Complexity and Contradiction in Architecture"の頭韻、脚韻を尊重し「建築の多様性と対立性」と改められ、1982年に鹿島出版会から出版された。

エドウィン・ラッチェンスは、1869年3月29日にロンドンで生まれ、サリー州のサーズリーで育った。
父親が尊敬していた、友人の動物画家で彫刻家の、エドウィン・ヘンリー・ランドシーア卿に因んで、 エドウィン・ランドシーア・ラッチェンスと名付けられた。エドウィン・ヘンリー・ランドシーア卿はトラファルガー・スクエアのライオン像の作者である。
フランク・ロイド・ライトは1867生まれ、マッキントッシュは1868年生まれなので、この3人は同じ時代の空気を吸っていたことになる。
ラッチェンスの住宅の外観だけを見ると、この3人が同時代の建築家だとはとても思えない。 特にラッチェンスとマッキントッシュは、グラスゴーとロンドンと離れてはいるが、同じ英国で、 先行するフィリップ・ウェッブとリチャード・ノーマン・ショーの少し後の世代として、同時代を生きていた訳だが、二人の人生は全く対照的だ。



ずっとハニーマン・アンド・ケピーという事務所の所員だったマッキントッシュは、グラスゴー美術学校が終わったあと、事務所の仕事に興味を失い、 1913年、45歳で退職し、翌年グラスゴーを去り、ロンドンへ移る。そして第一次大戦以後はほとんど建築作品を作っておらず、ただ素晴らしい絵画作品は残して、 1928年、60歳で失意のうちに亡くなっている。

一方のラッチェンスは、クライアントに恵まれ、たくさんの邸宅を設計し、 マッキントッシュの主要な建築活動がほぼ終わる、1912年、同じ40歳半ばの頃に、英国統治下にあったニューデリーのインド総督邸 の設計を委嘱される。
これは夫人の父親がかつてインドの総督であったところから来ている。 これ以後、彼の事務所の仕事は住宅から、ミッドランド銀行のような大きな仕事に移り、事務所も拡大していった。
マッキントッシュが建築をつくり続けるのが不可能になったちょうど同じ頃、 ラッチェンスは新たな大きなステップを踏み出している。
その後、第一次大戦を通り過ぎ、第2次大戦直前まで 作品を作り続け、1944年に75歳で亡くなる。
ラッチェンスの全建築作品数はプロジェクトも含め300を越える。
英国における建築の歴史の中で、傑出した二つの才能が、同じ時代を生きながら、こんなにも違う人生を送っているのに驚く。

グレイ・ウォールズ
ラッチェンスの住宅のクライアントは、貴族は意外に少なく、 銀行家、政治家、実業家、製造業者、株式仲買人、といった裕福な、それも特にいわゆる自分一代の力で成り上がった事業家が多い。
ヴィクトリア朝(1837-1901)の後期、1960年以降は、新たに勃興してきた中産階級の人々の求めに応じて 建築家たちが住宅をつくる、住宅復興ドメスティック・リヴァイヴァルと言われる時期であった。
ラッチェンスの住宅も、こうした人々のための、殆どが人を呼んで、パーティをするためのセカンド・ハウスで、比較的大きなものが多い。
1910年から1930年まで20年もかかった、キャッスル・ドローゴというカントリー・ハウスがあるが、 これなどは、コルビュジエがサヴォア邸をつくっていたのと同じ時代とは考えられないような、石造のお城の新築である。

ラッチェンスは住宅復興を先導したリチャード・ノーマン・ショウ(1831-1912)とフィリップ・ウェッブ(1831-1915)という二人の先達を 尊敬していた。
ショウとウェッブの二人は同い年で、修業時代を共にG.E.ストリートの事務所で過ごし、独立後、ウェッブはその土地固有の スタイルを大事にするヴァナキュラーな折衷の方向、ショーは中世以来の農家や納屋などのモチーフのピクチャレスクな折衷 の方向という少し違う行き方で、この時代を大きくリードした。

マッキントッシュとラッチェンスは二人とも、ショウとウェッブ、特にショーから形態的な影響を受けていて、 グラスゴー・スクール・オブ・アートにもショウの作品との部分的な類似点がいくつか指摘されている。
ショウは生涯、ヴァナキュラーのクイーン・アン様式から、レンのスタイルのリヴァイヴァルを経て、バロックへとスタイルを変容させていったが その変容をなぞるようにラッチェンスも、ヴァナキュラーからレン風(ラッチェンスは洒落てレンネイサンスWrenaissanceと呼ぶ)、 そしてバロックへとスタイルからスタイルへと移行する。
ウィリアム・モリスのレッドハウスを設計した後、小事務所で主に住宅作品をつくったウェッブと対照 的に、ショウは大事務所を持って、住宅以外の大きな仕事も含めて大量の仕事をこなした。このショウの生き方に、ラッチェンスは大きな影響を受けた。晩年近くの1938年には ショーの事務所が昔あった29,Bloomsbury Squuareを借りて事務所にしている。

ラッチェンスの初期のカントリー・ハウスをこれから見て行こうと思う。
一見すると英国の伝統的なカントリー・ハウスと違わなく見えるラッチェンスの住宅が、じっくり見れば見るほど非常に豊かな建築的遊び―ウィットを含んだ、 奥行きの深い建築であることを発見できる。

“ウィットのない建物Buildingを、建築Architectureとは言わない”とはラッチェンスは言葉である。

3.マンステッド・ウッド Munstead Wood 1893-1897

ラッチェンスの建築家としての生涯を考えるとき、ガートルード・ジキル(1843-1932)という女性造園家と カントリー・ライフの社長であるエドワード・ハドソンという二人の人物の存在を除いて考えることは出来ない。
1889年に事務所を設立して間もない頃にラッチェンスはガートルード・ジキルに会っている。 彼女はラッチェンスより26歳年上の未婚の独立した女性で、早くから造園家として大きな事務所を持っていた。
その後彼女は協力者としてラッチェンスに多大な影響を与えた。また、仕事の面でも彼女を通じてラッチェンス は多くの仕事を得ている。
一方、エドワード・ハドソンが、「カントリー・ライフ・イラストレイテッド」という雑誌を創刊したのは1897年のことである。
最初は狩猟の雑誌だったが、すぐにカントリー・ジェントルマンのための生活のあらゆる面を含ん だ雑誌となった。
もちろんその中には住宅と庭園も含まれる。1900年には「ザ・ガーデン」という雑誌と合併し、 その雑誌のために書いていたガートルード・ジキルはハドソンに請われてカントリー・ライフに移った。
やがて彼女はハドソンにラッチェンスを推奨し、彼の設計したマンステッド・ウッドが「カントリー・ライフ」誌に掲載されることになる。

マンステッド・ウッド
マンステッド・ウッド マンステッド・ウッド


ラッチェンスにとって、エドワード・ハドソンと結びつくきっかけになった マンステッド・ウッドは、ガートルード・ジキルの自邸で、ラッチェンスは1893年に設計をスタートしている。 マッキントッシュがグラスゴー・スクール・オブ・アートのコンペに参加したのが1896年である。
二人の年の同じ建築家が、ほぼ同じ頃、その後の人生にとって重要な仕事のスタートラインに立っている。
マンステッド・ウッドは、ラッチェンスが育ったサリーにある。サリーには1889年独立して以来設計した住宅がすでに多くある。 このころはこの近くに住む、ジキルのサークルの人々が、多くクライアントになっている。
外壁はバーゲート・ストーンという地元産の石が使われていて、外観もヴァナキュラーな表情で、ジキルのつくる庭と しっくりとなじんでいる。ラッチェンスの住宅にとっても、庭は重要な役割を担っていて、以後ジキルとのコラボレーションは 30年以上に及ぶ。
マンステッド・ウッズ




4.ル・ボワ・デ・ムチエ Le Bois des Moutiers 1898

フランスのノルマンディ地方、ヴァランジュヴィル・シュール・メールという村にラッチェンスの設計した住宅がある。 1898年、ラッチェンス29歳の時の作品である。
クライアントであるギョーム・マレの夫人、メアリー・アデレイドがラッチェンス夫人エミリーの叔母を知っていた、という関係で、 ラッチェンスは1900年のパリ万博の英国パヴィリオンの設計者に指名され、 その準備でパリに来ていたラッチェンスと会い、設計を依頼した。
彼らが購入した敷地には、煉瓦造の矩形平面の建物が建っており、マレの依頼は、この躯体を残し、 アーツ・アンド・クラフツのテイストで増改築を施して欲しいというものであった。
切妻屋根の東端と西端に立ち上がる大きな煙突に挟まれた部分が既存で、 ラッチェンスはその矩形平面の西側に、ミュージック・ルーム、東側にサーヴィス室を追加し、さらに矩形の南西部にエントランス/階段室を付け加えた。
写真右:北面、突出部がミュージック・ルームのアルコーブ。下左:エントランス/階段室。下中:南面ミュージック・ルームとエントランスの突出部。
下右:東面サービス室側のウィットに富んだエレヴェーション。


ボワ・デ・ムチエ ボワ・デ・ムチエ
ボワ・デ・ムチエ ボワ・デ・ムチエ ボワ・デ・ムチエ


ミュージック・ルームは、南側にギャラリーのある2層分の天井の高い吹抜け空間で、北側のピアノの置かれたアルコーブには 遠くに海を望む、高さ7mの大きな開口がある。
この開口は細かい矩形に分割され、外観写真がわかりやすいが、縦に11列ある矩形の連なりの、 中心の列の両側、3列がオリエル窓の形状につきだしている。
このプリズム状の縦長のオリエル窓は単独で、南側のエントランス/階段室の突出部にも繰り返される。 細かい矩形に分割されたこの開口を見ると、一瞬マッキントッシュを思わせる。しかし、 マッキントッシュとは少し違うテイストを醸す、とても新鮮な印象の窓だ。

マッキントッシュの影響だという批評も見つけたが、ヒルハウスは1902年に、ウィンディ・ヒルでさえ1899年に設計を開始しているので、 ボワ・デ・ムチエより少し遅く、ありそうもない。
むしろラッチェンスが憧れ、マッキントッシュも影響を受けた リチャード・ノーマン・ショーからきている気がする
ただ、これより前グラスゴーにほど近いロスニースという所で、ラッチェンスはフェリー・イン(1896-97)という住宅をやっていて、 現場へ行く途中、ジョージ・ウォルトン設計でマッキントッシュが内装をやったブキャナン・ストリート・ティールームに寄っている。 何らかの影響はあったのかもしれない。

ボワ・デ・ムチエ ボワ・デ・ムチエ

この住宅は、他のラッチェンスの住宅と趣が異なり、もしかしたらウェッブやヴォイジーそしてマッキントッシュが歩んでいたのと同じ時代の、 新しい流れに寄り添う、全く違うラッチェンスが見られたのかもしれない、ある意味分岐点の様相を見せる住宅である。
しかしこの前後にさきのフェリー・インやザ・プレザウンスなど、似たテイストの住宅を幾つか作ってはいるが、1913年にカントリーハウス社から 発行されたラッチェンスの住宅作品集にはこれらの住宅は掲載されていない。
大きな後ろ盾であった、ハドソン、ジキルがともに、ボワ・デ・ムチエの新しい方向を望まなかったようだ。 マンステッド・ウッドの前、ラッチェンスはジキルとともに、近辺のサリー州のヴァナキュラーな住宅を探索している。 その土地固有の材料、テイストを使うことを、ジキルは徹底して求めた。

しかしサリー州以外の土地で、例えばグラスゴーの郊外のフェリー・インでは、ラフキャストがむしろヴァナキュラーな 外観だったのは、その土地特有のスコティッシュ・バロにアル・スタイルを踏襲したマッキントッシュの住宅を観てもわかる。
むしろラッチェンスははやりのスタイルに傾いたというより、ジキルに教えられた、ヴァナキュラーなスタイルを大事にすること、 を実行したに過ぎないという見方もできる。
カントリー・ライフのハドソンや、ラッチェンスの作品集を編んだウィーバーは、流行りの“ニュー・アート”を ドイツやオーストリアを喜ばせるスタイルとして嫌悪していた。フェリー・インはラッチェンスにとってはヴァナキュラーなスタイルだったが、 特に縦長のオリエル窓を、マッキントッシュに代表される“ニュー・アート”の象徴のように彼らは 感じ、嫌悪感を抱いたようである。これ以後ラッチェンスの住宅にオリエル窓は現れない。

ボワ・デ・ムチエ ボワ・デ・ムチエ ボワ・デ・ムチエ

クライアントの英国のアーツ・アンド・クラフツへの偏愛から、家具はアーツ・アンド・クラフツのテイストでまとめられ、 ラッチェンス・デザインの家具もモリス商会で作られたということだ。
代々のクライアントは庭造りも趣味だったようで、 ジキルの庭は愛され、とてもいい状態で維持されている。

家主の愛したアーツ・アンド・クラフツの雰囲気を残したラッチェンスの住宅と、ジキルのデザインした広大なイングリッシュ・ガーデンは、 園芸好きの家主によってよく手入れされ、 100年以上の時を経た今も、ますます輝きを増している。
ラッチェンス+ジキルのコラボレーションの第一級の作品が、もしかしたら英国にあるどの作品よりも いい形でフランスに保存されているのかもしれない。


5.ゴダーズGoddards 1898-1899

ゴダーズは当初、住宅ではなく、看護師、家庭教師といった、経済的に余裕のない、働く女性たちのために、ロンドンの喧騒を離れて休息のできる夏の 保養施設として計画された。また南アフリカ戦争(1899-1903)の後は傷病兵のための施設としても使われた。
代々ロシアでデパートを経営してきた家系の出で、しかも結婚相手の親の船会社をも引き継いだ、富裕なスコットランド人が、 この慈善事業を計画し、設計をラッチェンスに依頼したクライアントである。

この敷地には昔、ゴダーズと呼ばれたマナーハウスが立っていた。このことが左右対称のH型のプランをラッチェンスが踏襲した理由かもしれない。 サリー地方のヴァナキュラーを、ラッチェンスに徹底的に刷り込んだジキルの影響で、左右対称の平面は、 ここまでのラッチェンスの住宅には見られず、初めてと言える。

実際には、H型と言うより、2階建ての、左右対称のコの字型の両サイドの途中から、尻尾のように1階を食い込ませて道路側に伸ばした、 と言った方がいいかも知れない。
核となるコモンルームが中央にあって、翼部には1階にスタジオとパーラー、2階に6つの寝室が入って、 コの字型にガーデン・コートを囲み、尻尾が道路側のフロント・ガーデンを囲む。

西向きのガーデン・コートは、午後の光を最大限採り入れるために、90度の矩形ではなく102度に少し開いた台形をしている。
南側の尻尾は、球を転がして9本のピンを倒して遊ぶ、ボウリングの前身のような、スキトルというゲームのための部屋、スキトル・アレーで、 北の尻尾には、ダイニングの半分とキッチンの付属室が入っている。

庭の境界は四周を、低い刈込に囲まれ、サリー地方に昔からあるさまざまな植栽が建物の際にまでせまり、芳しい花の香りをほのかに室内に運び、 ガーデン・コートは、円形の井戸を中心に、微妙にアップ・ダウンする舗石と植栽で、豊かに幾何学的に構成されている。 建物の内と外は互いに引き立て合うように見事に融合しており、 10あまりのラッチェンスの建築・ジキルの造園のコラボレーションの中でも、最も成功した例ではないかと思う。

左側プランは当初のものだが、竣工後10年経った1910年、クライアントの子息夫婦の住居に変更するための増築が、再びラッチェンスに依頼された。 庭側の両ウィングが引き伸ばされて、それぞれダイニングと書斎・ライブラリーが入る右側プランの現在の形になった。


庭園側立面

庭園
当初平面 増築後平面


1910年の増築時に、クライアントによって購入された17世紀の納屋の建物を、ラッチェンスは北東の道路際のエントランスへの北風を防ぐ位置に配置した。
現在の敷地への入口はこの納屋の脇の駐車スペースにあり、ガレージ用の小屋の壁の道路から見える位置に"GODDARDS"のサインがある。
納屋の間の通路を抜け、壁にそって移動すると、 キッチンの勝手口に至り、まっすぐアーチ型のトピアリーを潜るとエントランス・コートへと至る。
中心軸上にあるY字型の二つの木戸はあまり使われていないようだ。この回り込むアプローチは、人を引き回すラッチェンス得意の内部動線にも似ている。

エントランスのある東立面は、左右対称形で、 中央に、先行するヴォイジーがよく使用し、アーツ・アンド・クラフツの建築家たち、 特にウェッブが“家庭らしさ”を暗示するとして好んだ、家形=ゲーブル(破風)が連なる、 マンステッド・ウッドのファサードにも使われた“2連ゲーブル”を中心に、 マッシブな煙突が両サイドに屹立する。
“2連ゲーブル”と両サイドのマッシブな煙突のモチーフは、この後ティグバーン・コート、ホームウッドで、3連ゲーブルとしてラッチェンス独自のデザインに洗練されていく。 さらにホームウッドでは、三つ並んだ切妻屋根の、屋根全体の断面がファサードに表現された形に結実する。


配置 エントランス立面

2014年の夏、ロンドンに滞在し、昔住んだ家、思い出の地を見て回った。そしてラッチェンスの住宅をいくつか訪ねた。

見ることの出来た住宅の中で、ゴダーズには一番手を焼いた。下調べが不十分で、地名のアビンジャー・コモンを、アビンジャー・ハマーと思い違いをしていた。 さらに、途中で教えてくれた人の描いた地図が、不十分で、歩いても歩いてもつかない。 日本ほど暑くはなかったが、夏の陽射しの下歩き続けた。 帰国してからグーグル・マップで確認したら、敷地のすぐ近くにバス停があった。


2時間近くも歩き続け、ほとんど 諦めかけたときに通りかかった車の窓から顔を出して、そこなら知っている、乗せてて行ってあげると言ってくれる親切な人に出会った。 若い女性の花屋さんで、近くに花束を届けるので、そこに寄ってからでよければ、と言う。もう足が棒だったから、願ったり、かなったりだった。

やっとの思いでたどり着いたゴダーズには、ラッチェンス・トラストの本部があり、内部も観ることが出来た。 ドロシーさんというトラストの人が、中を案内してくれた。


前面道路から

1910年に増築された書斎ライブラリーが、現在ラッチェンス・トラストの本部として使われ、 ラッチェンスのウィットのあるペン画やデザインした椅子がおかれている。ドロシーさんがラッチェンスのデザインについていろいろ説明してくれる。

矩形の出窓によってジキルの庭園をより近くに感じさせる。暖炉周りは煉瓦積みが様々な表情を見せ、窓辺のシートの上と、暖炉の右サイドに配置された小さな窓が 明暗をつくり、親密な表情をつくっている。


ライブラリー ライブラリー 暖炉

ボウリングに似たゲームをするためのスキトル・アレイの部屋はレンガのアーチの連続によって支えられている。 たまたま同時期のマッキントッシュのグラスゴー美術学校の増築時の最上階のロッジアも白く塗られてはいるが、同じ構造である。
平面図を見ると、下の写真でもわかるが、2階の寝室の片持ちの床が隣り合うレンガ壁に渡された梁によって支えられ、スキトル・アレイの上に張出している。


外部にはレンガのアーチの位置に、横力を受ける斜めのバットレスが飛び出している。
デザイン的に見ると、斜めのバットレスは同時代のヴォイジーの作品によく出て来るモチーフで、 ラッチェンスは構造的理由からだけでなくこのデザインを好んだようで、後の フォーリー・ファームでもレンガの斜めの列柱を使っている。



スキトル・アレー スキトル・アレー

エドワード・バーンジョーンズ、ウィリアム・モリスやジョン・ラスキンとの交流から、アーツ・アンド・クラフツの直接的な影響下にあったジキルは、 20歳のラッチェンスを連れて、サリー州の伝統的な建築の、構法、仕上材料、そしてそれらが作るを建物の形態を調査し、 その土地固有のヴァナキュラーな伝統を大事にすることを敲き込んだ。 ゴダーズにも、ゲーブルと煙突の作る美しいアウトライン、隠さずに表現された木構造、小石を混ぜた漆喰壁に、レンガの縁取りなどのサリー州のヴァナキュラーな 言語が多用されている。

ぼくも何故なのか不思議に思って観ていた、屋根の上部の赤瓦が、軒近くになって、ホーシャム石のスレートに切り替わるデザインも、 サリー州に伝統的な建物から来ているらしい。 アーツ・アンド・クラフツの空気の中で、フィリップ・ウェッブやリチャード・ノーマン・ショーという二人の先行する偉大な建築家が提示した“2連ゲーブル” “バタフライ・プラン”のようなヴォキャブラリーを、ラッチェンスは自分独自のものに昇華して行く。


コモンルーム コモンルーム

バタフライ・プランについて言えば、グレイ・ウォールズからパピヨン・ホールへと発展したアイディアの萌芽が、ゴーダーズの、より多くの太陽を採り入れようと102度に開いたプランに みられると言えなくもない。リチャード・ノーマン・ショーのバタフライ・プランの名作“チェスターズ”をラッチェンスは1901年に訪ねている。
触発されたとしても、ラッチェンスの提示した、グレイ・ウォールズやパピヨン・ホールは、もっと別の独自の高みに達していると言っていいのではないか。
1910年の増築の時に、北翼のダイニングと南翼の書斎・ライブラリーには、どちらにも、 2階の寝室まで達する2層分の大きな矩形の出窓が、室の両サイドに加わった。 そして南端部の暖炉から伸びるマッシブな一対のレンガの煙突、フロントガーデンの煙突と同じに、45度振られている。
ホーシャム石のスレートのスカートのような屋根の取り付いたエレヴェーションは、ル・ボワ・デ・ムチエ東面のウィットに富んだ表情を思い出させる。
庭園側全体立面


6.ティグボーン・コートTigbourne Court 1899-1901

ウィリアム・モリスが1871年から1896年に62歳で亡くなるまで休暇を過ごすのに借りていたケルムスコット・マナーは、 16世紀エリザベス朝に建てられた石造のマナー・ハウスで、モリスは家らしさの象徴である破風(ゲーブル)の連なる素朴な表情を一目で気に入り、 1892年から刊行された“ユートピアだより”の扉絵に使っている。

先行するウェッブ、ショー、ヴォイジーが好んだ、連なるゲーブルのモチーフを、ラッチェンスは早くから好んで採用していて、23歳ころの マンステッド・コーナー(1891−92)という住宅で、ハーフ・ティンバーではあるが、すでに3連ゲーブルの住宅を設計している。
その後、1903年頃までの10年余の、ラッチェンスの住宅には、連らなるゲーブルのモチーフが繰り返し現れる。

Munstead Corner 1891-1892 3連ゲーブル ハーフティンバー
Munstead Wood 1893-1897 2連ゲーブル 両サイドに煙突
Goddards 1897   2連ゲーブル 両サイドに煙突
Tigbourne Court 1899-1902 3連ゲーブル 両サイドに煙突
Homewood 1901 3連ゲーブル 両サイドに煙突(少し下がった位置)
Little Thakeham 1902 4連ゲーブル 両サイドに煙突

マンステッド・ウッド、ゴッダーズ、と2連ゲーブルが続き、ティグボーン・コートで、変則的なラッチェンス独特のプロポーションの3連ゲーブルが現れ、 ファサードを作る主要なデザインとして、魅力的な表情を作る。2連ゲーブルも側面に回って生きている。 この独特で美しい、3連ゲーブルのモチーフは、ほぼ同時期のホームウッドでも主要なモチーフとして使われる。
連なるゲーブルのモチーフでは、必ず谷ができるので雨水の処理の仕方がなかなか難しく、デザイン的にも樋が立面の表情をつくる大きな要素になる。 マンステッド・ウッド、ゴダーズでも、それぞれ違った解決策を示されていて面白いのだが、ティグバーン・コートでは1階の列柱の間にどうしても 縦樋を下したくなかったのだと思うが、垂れ流しのガーゴイル状の樋にしている。それを斜材で支えた絶妙なデザインが冴えている。



エントランス立面 ティグボーン・コート

ケルムスコットマナー Munstead Corner1891-92樋


マンステッドウッドの雨水の処理の仕方も面白い。2つのゲーブルの間の谷は軒樋で受けて縦樋で下しているが、 両サイドの煙突とぶつかる部分では、縦樋で下さずに、煙突の壁を横に横断させ、コーナーを回し、隣の屋根に垂れ流している。 ラッチェンスは、出来るだけ縦樋を使わずに、どうしたら雨水を地上に持っていけるかを常に探し求める。

ゴダーズの2連ゲーブルでも、2つのゲーブルの間の谷は、軒樋で受けて縦樋で下しているが、 両サイドの煙突とぶつかる部分では、マンステッドウッドと同じように煙突の壁を横断させ、コーナーを回し、 隣の屋根に垂れ流し軒樋で受け、それをさらにもう一度、隣の屋根に垂れ流し 軒樋で受け、少し離れたところに縦樋を設けて、ここでやっと地上に流す。

マンステッド・ウッドの樋 ゴッダーズの樋

2014年、ティグボーン・コートはゴダーズの前に訪ねたのだが、こちらは簡単に辿り着くことが出来た。

ウィットリーという駅から10分程度歩き左折、ペットワース・ロードに入るとほどなく、三層の主屋から、マッシヴな煙突を持つ一層の両翼が エントランス・コートを囲む、強いシンメトリカルな構成の、美しいファサードが目に入ってきた。両サイドの煙突の横には、凹曲面の壁があって、 その中央にそれぞれ庭へのドア、サービス部門へのドアがある。このファサードの見た目のシンメトリーと平面に見るアンシンメトリーの齟齬が、 まさにラッチェンスが言っている“ウィットのない建物Buildingを、建築Architectureとは言わない”の言葉通りのウィットの力技だ。

グーグルマップの航空写真を見ると、立面で二連ゲーブル、三連ゲーブルをつくるためにラッチェンスが、切妻屋根をどう構成したかが分かる。
西南のファサードの三連ゲーブルは小さな副次的な屋根である一方、東南の庭側に二連ゲーブルを見せる切妻屋根は、L字型の主屋全体を大きく覆って伸びている。 (ちなみにこの写真のL字型の主屋の北側に見える屋根は、あとで付加されたビリヤードルームの棟である。)

マンステッド・ウッドとゴダーズの二連ゲーブルはどちらも付加された副次的な屋根の断面だったが、ティグボーン・コートの東南の立面で初めて、 全体を覆う切妻屋根の断面の家形としての二連ゲーブルが現れる。

配置 配置図

1階にホールと書斎が入るシンメトリカルな二連ゲーブルの横に、少しずれて、細長いドローイング・ルームが伸びる東南立面の構成。
立面を絵のように構成することをピクチャレスクというが、平面と立面の連携するラッチェンスのデザイン操作は巧みで、立面を意識しながら 平面を考えていて、なおかつそこにウィットを潜ませる。
ポーチから玄関ドアを開けヴェスティブルに入ると、正面に階段の壁があって、人の動線は平面の中心軸を外れ、横に回りこみ、階段のあるホールに 導かれる。ラッチェンスのこの後の邸館に特徴的に現れる、平面上の軸線から逸し、逸し、引き回す動線がここに始まる。
また、各室の平面を見ると、必ず一壁面に二つずつあるドアや、暖炉、そして階段などの要素は全て、必ず各室の中でシンメトリカルな位置に置かれる。

2階の平面はL字型をして、その一面が三連ゲーブルを構成すること、その下の一階には、ポーチのクラシカルな列柱が来ること、 この三連アーチ・列柱のファサードとマッシヴな煙突を際だたせるために、両翼部は一層にすること。
おそらくこれらのことは頭のなかで瞬時に計算して、ラッチェンスはすらすらっと平面、立面のスケッチを起こしたのではないかという気がする。

シンメトリカルで、アシンメトリカルな要素を内包する、この住宅は、初期のヴァナキュラーからクラシカルに移行しようとする、ラッチェンスの最も 充実した時期のデザインだ。ペヴスナーにラッチェンスのベストの作品だと言わしめた。

1階平面図 2階平面図

クラシカルな要素は道路側ファサードの三連ゲーブルの下、1階のドリス式オーダーの列柱に現れる。16世紀エリザベス朝のロバート・スミッソンのハードウィック・ホールの 上階の壁面とポーチのドリス式列柱を組み合わせた構成に影響を受けたかもしれないとされる。 さらには2階の窓の上には、ミケランジェロのファルネーゼ宮のように三角と櫛形が交互に現れるペディメントの変化。

ヴァナキュラーな要素は、外壁を構成する材料に現れる。サリー州に固有のバーゲート・ストーンの外壁、モルタルに鉄鉱石のかけらを混ぜた、 ガレッティッド・ジョイントと呼ばれる目地の納まり、屋根用タイルの小口を斜めに組み合わせ、ライン状にした水平線のアクセントである。
ジキルの影響下のアーツ・アンド・クラフツの手法に、ラッチェンスは少しずつクラシカルな手法を絶妙な呼吸で混合していく。

ファサード ハードウィック・ホール 外壁

東南の庭側立面。1階にホールと書斎が、2階に寝室が入るシンメトリカルな二連ゲーブル。その横に少しずれて、 3面ガラスの出窓のある細長いドローイング・ルームが伸びる。

付加された副次的な屋根の断面ではなく、二連ゲーブルは全体を覆う切妻屋根の断面になっている。
東北立面の2階のコーナー近くには、寝室から出られるバルコニーの美しい表情が見える。
東南立面 北東立面

全体道路側立面。観たことのないようなユニークなファサード。



グレイ・ウォールズ



7.ホームウッド Homewood 1901

ラッチェンスの住宅の魅力にぼくが惹きつけられた一番最初の住宅で、2014年の旅行でも、訊ねるのを最も楽しみにしていた。

ケンブリッジに行く途中、ロンドンから列車で30分のネプワース駅で降りた。 駅を出てさてどうやって行くかと、とりあえず駅前の家で車のそばにいた人に道を尋ねる。 小雨振る中歩くのは、可哀想だと思ってくれたのか、親切にもその車でホームウッドの前まで送ってくれた。
この旅で訊ねたラッチェンスの住宅は、幸運なことに全ての住人が庭まで招き入れて見せてくれたが、 ホームウッドでは、感激したことにさらに家の中まで案内してくれた。

ホームウッドは設計時期が重なるためか、ファサードの三連ゲーブル、側面の二連ゲーブル、 そして階段の位置・平面の構成に、ティグボーン・コートと共有する特性が多くある。 規模は小さいために、それらの特性がホームウッドにはよりシンプルに、かつ鮮明に出ている。航空写真で比べると分かるが、 ファサードの三連ゲーブルもティグボーン・コートのように部分的な屋根ではなく、 主屋全体を大きく覆って伸びている。

ラッチェンスはインド総督だったリットン伯爵の娘、レディ・エミリー・リットンと1897年に結婚する。リットン伯爵はすでに1891年に亡くなっており、 未亡人だった義母のレディ・リットンのための住宅がこのホームウッドである。
ラッチェンスの家族は、ホームウッドによく滞在し、子供たちも休暇をここで過ごすことをとても好んだという。

北西立面の外観はティグバーン・コートと同じ、アーツ・アンド・クラフツ的な、ヴァナキュラーな 表情をした独自の三連ゲーブル(上半分)と、クラシカルなディテールをもった、白いスタッコ部分(下半分)が 魅力的な立面をつくっている。
楡材に黒いステインを塗られた下見板張りの、三連ゲーブルとそれぞれに穿たれた三つの田の字型の窓、左右両端に延びた小さな一層の屋根、 そしてエントランスの白く塗られた木製のアーチ、そしてその下の宙に浮いた象徴的なマグサという風に、 次第にクラシカルな方向に傾いていくこの時期のラッチェンスの、ヴァナキュラーとクラシックが混ざり合った、幾何学的な形態操作、マニエリスティックな、立面操作 が目を奪う。秀逸かつ美しい。

航空写真を見ると、屋根は 北西立面の破風から延びる3つの切妻屋根が南東立面の切妻屋根に直角にぶつかる構成をしている。
南西立面の破風から延びる2つの切妻屋根のうち南側は幅一杯に伸び、北側は短い。 さらにこれらの切妻屋根の間には採光のために小さな屋根窓(ドーマー)が2階の階段室や、寝室に付加されている。


ホームウッドホームウッド
ホームウッドホームウッド


連続ゲーブルのモチーフについては、ラッチェンスに影響を与えた、としてよく引き合いに出される、 フィリップ・ウェッブのジョルドウィンズ(下図左)やスタンデン1891(下図右)のように、複数のゲーブルが並列に等価に並ぶのとは、ラッチェンスの三連ゲーブルは異なる。

ジョルドウィンズ


ティグバーン・コートのファサードと同じように、ホームウッドのファサードでもラッチェンスの3連ゲーブルは、中ふたつの 谷を浅くして、全体としてひとまとまりの3連ゲーブルという形態にしていて、ウェッブの連続ゲーブルとは考え方が異なり、ラッチェンス独自のものになっている。

  スタンデン
ラッチェンスの邸館の中では、わりと小さい方であり、平面を見ると、正方形から、幾つかの突起が出たような形をしている。 中心の正方形は縦三つ横三つに分割され、大雑把に言って九つの区画から成っている。
3等分したした西側の列にはスタディ、ホール、ドローイング・ルームという3室が縦に並び、真中の列に、エントランス、階段、ダイニングが並ぶところは ティグバーン・コートと同じ構成であるが、違うのはサービス・ブロックで、複雑なティグバーン・コートと違って、 ホームウッドではキッチン、パントリー、サーヴァント・ホールと、3室がシンプルに南北に並ぶ。
パブリック-プライベートの段階的ヒエラルキーが非常に明確でシンプルな平面構成である。
アプローチの車道は、ダイアゴナルに伸び、途中からエントランスに真っ直ぐぶつかる道路に分れる。

この軸がエントランスの開口を通る軸と一致するのだが、この開口は平面上は中心から少し外れ、平面上の中心軸と、立面で見る中心がずれている。 エントランス脇にトイレをとったためだが、ここの所はグラスゴー美術学校のエントランスでマッキントッシュがやったことと少し似ている。

シンメトリーとアシンメトリーを意識的に操作するデザイン姿勢は、マッキントッシュとラッチェンスに限らず、 この時代の建築家が持っていた共通意識なのかもしれない。

ファサードの、向かって左側のキッチンに食品庫と洗い場を突出させて、 エレヴェーションの上では、完全なシンメトリーを構成して、外部と内部の「つじつま合わせ」が巧妙に行われている。

1階平面図 2階平面図



外観上、四つの立面はそれぞれに魅力的な、全く違った表情を呈しており、それぞれの立面ごとに 、独立した形態操作が、平面、そして屋根の検討と連動しながら行われている。
立面4面を1面もないがしろにせず、平面、内部の部屋の機能、そして屋根、を一緒に考え抜いて解いてゆく。
北西のエントランス側は下見板張りの三連ゲーブル、南西側は二連ゲーブルで構成され、 南東の立面は勾配屋根が1階の軒まで下りてくるという、全く違う表情を作り、 しかもシンメトリーの中心軸が、平面上で、ずれている。

ホームウッド ホームウッド

庭側の南東立面は、北側2面の破風の表現とは、異なった表情をしている。

屋根が両端で真中に向かって1階の軒高まで下りてきており、 両側のテラスの上に迫り下って、エントランスと同じ、再びクラシカルなモチーフが現れ、白い柱に支えられている。
中心部分では1階の白いスタッコの壁が、2階にまで伸びていて、2階分の高さの付柱(ピラスター)が4本、2階の軒まで伸びている。 この白壁は煉瓦に白いスタッコ塗りで、付柱は木製にペンキを塗ったものである。

ホームウッド ホームウッド


各立面の独立したシンメトリー構成に加えて、ホームウッドには、もう一つ のラッチェンスの邸館の大きな特色が出ている。
それは人の動線を、平面の軸線から外し、ずらして、ずらして長引かせる平面操作で、ラッチェンスの平面の特徴である 強い軸線の、その上を、ラッチェンスは素直に前へは進ませてはくれない。

エントランス・ポーティコを入ると正面は壁に突き当たり、その右にやっと入口ドアがある。ドアを開け、ヴェスティビュルにはいると、左右対称に二つのドアが見える。 正面ではなく、対角上のドアを開けるとホールへ。ホールでは振り返る形で、2階へ行くストレートの階段とダイニングへのドアがある。
ちなみに、この階段上部には、トップ・サイド・ライトがあって光を落している。

この光は、階段と玄関部分の間仕切りにあけられた二つの八角形の窓を通して、ヴェスティビュルにも達する。
体を左にひねって、階段の右にあるドアを抜けると、やっとダイニング・ルームに至る。
複雑で劇的なサーキュレーションは、ラッチェンスの平面の特性である。

しかもヴェスティビュルでもホールでもダイニング・ルームでも、各部屋のドアや暖炉は必ず、左右対称シンメトリカルな位置に置かれる。
全体構成ではシンメトリーを微妙に崩しつつ、しかも立面上のシンメトリーを巧妙にキープするというウィットを見せ、 部分を構成する各部屋は徹底してシンメトリカルな配置をとる。
しかも動線は対角方向、対角方向に人を引っ張る。なんという無駄なそして魅力的な遊びだろう。

階段 階段 階段


モダニズムを大きく転換させた著書”建築の多様性と対立性”で、ロバート・ヴェンチューリは、ラッチェンスに多く言及しているが、 1962年の“母の家”において、外観にホームウッドのゲーブルを、

ホームウッド


引き込んで、壁にぶつかるエントランス、軸線と直角の階段の位置、90度ターン、そして引き回す動線など、 明らかにホームウッドを参照している。

ホームウッド


8.ディーナリー・ガーデンDeanery Garden 1899-1902

ディーナリー・ガーデンは、エドワード・ハドソンが、ムンステッド・ウッドを見て、 彼に頼んだ最初の仕事である。
この後ハドソンは常にラッチェンスのパトロンであり続け、 ラッチェンスの作品は次々とカントリー・ライフ誌に掲載され、1913年に作品集としてまとめられる。
後で述べるパピヨン・ホールやマーシュコートは、カントリー・ライフ誌上でラッチェンスの作品を見 た人が依頼して来たものだし、キャッスル・ドローゴの施主はハドソンに建築家を世話して くれるように相談に来たことから、ラッチェンスと結びついた。という風に多くのクライアントが、 ハドソンを通して彼のもとにやってきている。


このようにエドワード・ハドソンはガートルード・ジキルと共に、 ラッチェンスの建築家としての生涯に、非常に重要な役割を果たした。
自身もディーナリー・ガーデンの後、リンデスファーン城の改装(1903)、 クイーン・アンズ・ゲート15番地(1906)や、プランプトンプレイス(1927)の改装、 そしてカントリー・ライフの社屋というように次々とラッチェンスに仕事を依頼している。
現在はレッド・ツェッペリンのジミー・ページがこのディーナリー・ガーデンを所有している。 これ以前彼は、やはりハドソン・ラッチェンスのプランプトン・プレースに住んでいた。さすが英国、趣味の良いロッカーがいる。

ディーナリー・ガーデン ディーナリー・ガーデン


敷地はもともと果樹園だったところで、ハドソンが土地を手に入れたとき、周辺を高い煉瓦の塀が取り巻いていた。 ラッチェンスは北側の煉瓦の塀をそのまま利用して、コの字型の平面と煉瓦塀によってコートヤードをつくった。
それに合わせたのか、外壁もこれまでの邸館に使われたサリー州特有のバーゲート・ストーンやらラフキャストではなく、 バークシャー煉瓦が主要構造そして仕上に使われている。

コートの中心に彫像を置き、その延長線上の建物内に暖炉と2階分に吹き抜けた大きな出窓、オリエル・ウィンドウを相対させた。 これがコの字型平面の中心を通るシンメトリーの南北方向の軸線として読みとれる。
このシンメトリーの対称軸よりも、道路側のエントランスから交差ヴォールトの天井のアプローチ通路を通るアシンメトリーな軸が、 建物を突き抜けて、庭のブリッジからその先の半円の階段へと伸びて、建物と庭園を統合する強い軸線を形成している。

ディーナリー・ガーデン


庭側には道路の入口からパーゴラを通る東側の軸と、やはり道路の入口から矩形の池を通過して長く伸びる軸が見える。
これら4本の南北軸に直角方向の東西軸が3本読みとれる。 コートの彫像からパーゴラに向かっての軸、ダイニング・ホール、 シッティング・ルームの中心軸、そして、細い水路の軸が橋の下の円形の池から、矩形の池を通過して西に伸び、 もう一つの円形の池に達するもう1本の軸である(その池の周辺には階段があって両側からそれぞれ六角形の パーゴラに至る。)
建物だけでなく庭園を含めた敷地全体を貫く強い軸線が存在し、 これらがお互いに作用しつつ全体構成をつくりあげている。
軸線が建物を突き抜け、縦横に走っているために、ラッチェンスの平面のなかでも、 庭と建物が最も自由に一体化している。

10作位と思われるラッチェンスとジキルのコラボレーションの中でも、最もうまくいった例と言える。

ディーナリー・ガーデン ディーナリー・ガーデン


前庭を東西に走る、細く長い水路のアイディアは、ジキルがスペイン旅行から持ち帰ったものだという。おそらくはアルハンブラ宮殿の水路が頭にあったと思われる。
庭園側の立面はシンメトリーを崩した、絶妙のプロポーションをもち、繊細なブリックワークのアーチやチムニー、オーク枠に 細かい鉛の桟のオリエル窓の表情、そして水路、階段、ブリッジといった庭園を構成する細部が加わり、非常に静謐で、美しい表情を作り出している。

オリエルは平面上も南立面としても、中心にあって強い存在感を持っているため、そのままだと、立面の表情はオリエルを中心とする平凡な構成になってしまう。 このシンメトリーを避け、平面上最も強いアプローチの南北の軸線に呼応して、立面の重心をアーチの開口、 その脇の煙突などの要素で東側に寄せて、アシンメトリーな構成をあえてとって、ラッチェンスの邸館の中でもバランスのとれた、 最もピクチャレスクな美しい立面を創り出した。

ディーナリー・ガーデン ディーナリー・ガーデン


ハドソンはここで週末だけ過ごし、1、2年使ったのち1903年には売却している。ラッチェンスのためのモデルハウスとして考えていたのではないかと思われる。

ハドソンの売却後、ラッチェンスによって、1912年には北西側に新たな棟が増築され、さらに1927年には主屋の煙突の南西側を延長する増築が行われた。

ディーナリー・ガーデン ディーナリー・ガーデン




9.グレイ・ウォールズ GREY WALLS 1900

ラッチェンスのカントリー・ハウスの中でも最もよく知られたものの一つで、対角線の アプローチを湾曲したファサードで受けるという、新鮮な配置プランをしている。
ラッチェンスの北入りの場合の邸館のプランの基本パターンは、ヒースコートやリトルセイカムのように、 中心の北側に玄関、南側にホール、その左右の翼部に南側ではダイニング・ルームとドローイング・ルーム、 北側ではキッチンとライブラリーを配したH型のパターンである。
しかしグレイ・ウォールズは敷地の状況から後で見るパピヨン・ホールと共に南入り(実際は南西アプローチ)にせざるを得ず、 さらに敷地の一部がゴルフ場のクラブ・ハウスの敷地にとられて入口で狭くなっているという悪条件が重なっている。
従って後でみるパピヨン・ホールのように西側から回り込んで入るアプローチがとれない。 そこでラッチェンスは囲い込まれた南東のプライベートな庭とは別に、 広大なエントランス・コートをとって、ダイアゴナルな軸(これは方位の南北軸に一致する)をアプローチの軸とした。
このアプローチの軸の先に、湾曲したファサードが向かえていて、そして この湾曲した立面の両端には、ヴェンチューリの言う“まさしく彫刻的な入口のしるし”である、煙突が立っている。
湾曲部分には、サーキュレーション、キッチン、使用人室などのサービス部門が入っていて、 主要室はあくまで北東側のH型部分にある。
このH型部分から、初めて南東側の庭園に出られるようになっている。 エントランスのファザードの湾曲した立面は、ここではあくまでも外部の条件から決定されたも ので、内部の平面は、この円弧のために歪められている。
この歪められたプランの”つじつま合わせ”は素晴らしく、特にファサード側に窓のとれない キッチンは、採光の問題を南西側にトップライトとライトコートを配して解決しており、 円弧とH型平面の曖昧な融合の仕方には、安易に単純化せず、与えられた問題を無理に 解決せず、そのままの形で提示した趣があり、プランを豊かなものにしている。
この辺のところは、ペルッツィによるローマのパラッツォ・マッシーミや、ジョン・ソーン卿による イングランド銀行の平面を想起させる。
こうしたH型のプランに湾曲したエントランス翼がついたきっかけは、 この変形の敷地に悩んでいたラッチェンスが、リチャード・ノーマン・ショウの有名なバタフライ・プランの邸館「チェスターズ」を 訪れたことだといわれている。
このショウのチェスターズの側面の湾曲した立面が直接のきっかけになった、といわれる。
この後、ラッチェンス自身もこのチェスターズの影響のうちに「バタフライ・プラン」の邸館をつくった。
それが後で触れる、その名も「パピヨン・ホール」である。

グレイ・ウォールズ グレイ・ウォールズ グレイ・ウォールズ
グレイ・ウォールズ
グレイ・ウォールズ
グレイ・ウォールズ


10.リトル・セイカムLittle Thakeham 1902

この邸館の平面は、先に述べた基本パターンのH型をしていて北入りであり、このH型の 主要ブロックの北東の隅にサービス・ブロッ クが取りついた形をしている。
塀で囲まれたエントランス・コートから入口ポーチを入ると廊下になっていて、中心軸から右にずれた ところにホールへの入口がある。
ここを入ると、実際にホールとスクリーンで隔てられた階段室に出る。
ホールは2階分の高さの天井高をもち、階段の踊り場部分からホールが望めるようになっていて ここから2階の廊下につながる。もう半階上ったところに、主寝室のドアがある。
ホールには平面の中心軸上に、ディーナリー・ガーデンのような2階分の出 窓(オーリエル)がある(出窓の平面形は異なる)。
ポーチを入ると正面は壁になっており、実際の動線は中心軸をずれ、またホール内で は平面上、階段部分を除いたヴォリウムの中心に暖炉が置かれ、平面の上での軸線を、 各部分の空間、動線がずれながらプランが構成される。
部分でのシンメトリーと、家全体のシンメトリーが、各部分で対立して、相互に 緊張関係が生まれ、平面構成がピリっとしたものになっている。



外観はチューダー様式で、内部と外部の雰囲気はガラッと変ったものになっている。
特にホールでは、中の空間構成と殆んど関係なく三角形の破風が立ち上がっていて、外観か らは内部にこういう大きな空間があることを想像しにくい。
このホールの中の階段部分は、”家の中の家”的な感覚を抱かせ、また舞台装置の書割 のような雰囲気がある。特にこのホールと階段との間を仕切るスクリーンには、ヴァンブ ラやホークスムーアのバロック的な表情が与えられており印象的である。
舞台装置的な効果は、暖炉の丁度真上に突き出している、2階の廊下からのお立ち台のようなバルコニーにも ある(これと同じモチーフは、先のスクリーンの上にもある)。
またこのスクリーンのホールから見て左側の開口の中心線がダイニング とドローイング・ルームをつなぐ軸線上にあり、この延長上にそれぞれの部屋のアルコー ブ状の暖炉の中心がくる。
ラッチェンスの邸館の内部空間の中で、このホール空間は、文字通りもっとも劇的な空 間の一つだと思う。

リトル・セイカム リトル・セイカム




11.パピヨン・ホールPapilon Hall 1903-1904

この建物の核は、1620年代に建てられた、平べったい八角形をした奇妙な住宅である。
建主はチャールズ一世の宝石商人であった、ディヴィッド・パピヨンという人で、 この頃には幽霊屋敷のようになっていた。
ラッチェンスが全く新しい ブロックを付け足す形の増築ではなく、四つの翼を蝶の形に張り出すバタフライ・プランを 実施したのは、このパピヨンという名前からの連想が一つのきっかけになっていることは、疑いのないところである。
そしてもう一つのきっかけは、彼はこの計画の前に、先に触れたノーマン・ショウ設計の チェスターズを訪れていることである。また保存の主要ブロックが四つの辺から翼を伸ばし 易い八角形というおあつら向きの平面をしていたことも、彼をバタフライ・プランに向かわ せた大きな理由であろう。
バタフライ・プランはこの頃、ある程度の流行をみていて、ショウの他にもE.S.プライアー、 M.H.ベイリースコット等が試みている。
ただしベイリースコットのは計画案に留まり実現しなかった。
この辺の事情は、鈴木博之著「ジェントルマンの文化」所収の「蝶の館」の項に詳しい。
この邸館は敷地条件から南入りである。先に見た通りラッチェンスの邸館の基本型は H型プランで北入りが普通である。
その次に西入りのヴァリエーションがあり、主要作品の中で南入りの邸館は グレイ・ウォールズとこのパピヨン・ホール位である。
この南入りであるというプライヴァシーを護りにくい困難な敷地条件から、 西側にアプローチに沿って長く伸びた厩舎をつくったり、また円形のコートをつくるなど、 さまざまな操作をして人を引っぱっている。


そしてさらにエントランス・コートから、ホール至るまでの経路に は、多様な空間体験が味わえるような工夫がなされていて、ラッチェンスのウィットの真 骨頂が見られる。
まずエントランス部分には、他の部分には見られないヴァンブラを思わせる、 ラスティケイションの施された4本の柱で支持されたペディメントが、取ってつけたようにチュー ダー様式の邸館の1階に張り出している。
このバロック的力強さは、フランスのルドゥーも想い起させる。
こうした様式上の不統一は今まで見て来た邸館でもすでにおなじみだが、 ラッチェンスの意図的な操作である。
このペディメントの下をくぐると玄関なのだが、正面は行き止まりで、すぐに左に曲がると ベイスン・コートと呼ばれる円形の中庭に出る。 ここは周囲がトスカナ式の列柱をめぐらせたアーケードになっていて、反対側にやっと エントランス・ドアを見つけることが出来る。 ドアを開けてアウター・ホールと呼ばれるエントランス・ホールに入っても、真直ぐ正面 がメインのホールというわけにはいかない。 斜め左前方の開口からやっとギリシャ十時形のメイン・ホールに達することができる。
東側の立面の構成は、グレイ・ウォールズの湾曲したエントランスファサードと良く似 て両翼に煙突が立ち程良い角度で両端が迫り出している。 この立面の中心にある破風屋根は、増築前の既存部分が保持されている。 ただし、ハーフ・ティンバーにしたのはラッチェンスのデザインだといわれる。 様式の混合、時間の要素、サーキュレーションの意図された複雑さ等、ラッチェンスの プランニングの特性の多くが、このパピヨン・ホールにもあらわれている。
バタフライ・プランの中では最高に洗練された、このパピヨン・ホールだが、 残念ながら1948年に解体され、現存していない。
パピヨン・ホール パピヨン・ホール




12.ヒースコートHeathcote 1905-1907

それまで部分的に使われていた、古典的な様式のヴォキャブラリーを立面全体に及ぼし たのがこのヒースコートである。
ヴァナキュラーな様式をやめて、ヴァンブラやホークスムーアを思わせる、 バロック的な発想で全体を覆いつくしている。内部にも、クラシカル な言語がゆきわたっている。このクラシカルな様式に関わらず、平面構成は典型的なH型 で北入りのプランである。
例によって、左右対称の軸線と、動線のズレにラッチェンスらしさが出ている。
配置も建物全体の形も、かなり徹底的な左右対称である。エントランス ・ドアとホール、そして庭園の軸は、完全に軸線上にのっている。それだけに余計、エン トランスからホールに至る動線の、遠回りなところが目立つ。
エントランスを入ると正面はホールの暖炉の裏側にあたり壁であり、 右端にロビーへの入口がある。


この玄関の間自体は、これとは別に暖炉を中心に左右対称に なっている。
右に階段室を垣間見ながらホールに入ると、そこは、ホールの中心からは 4本の柱とアーチで分断された空間に出る。そのまま前へ真直ぐ行けば庭に出るドアがある。
ホールの両端にダイニングとシッティング・ルームがあって、中心軸と直交する軸線で結 ばれていて、端部にそれぞれの部屋の暖炉があるところは、リトル・セイカムとよく似ている。
その他外観上注目すべきラッチェンスのウィットは、ラスティケイトされた一対の煙突 の上部がマグサ状につながっているところである。ドア開口が、空中に浮かんであたかも 存在するように見える。その他リトル・セイカムのホール内部にあったバルコニー部分 のアイアン・ワークの手摺りと同じようなものが、外部テラスに見られ、全体のマッスの 力強さに拮抗して、表情を和らげていることである。
ヒースコート ヒースコート

ヒースコートの左右突出部分の立面の意匠は右のポルタ・パリオの意匠を引用している。

左はヒースコート南立面、下はそのドローイング。
右はイタリア、ヴェローナのポルタ・パリオ(1530年代)で設計はマニエリスムの建築家ミケーレ・サンミケーリ。
マニエリスムは書物によって英国の建築家に大きな影響を与えた。サンミケーリの本は1735年に出版され、 ロバート・アダムやコッカレル、ブロムフィールドなど多くの建築家に参照された。

ヒースコート

ヒースコート立面図
ラッチェンスはヴェローナにそれまで行ったことはなく、写真とドローイングを見ただけのようだ。
大陸ではモダニズムが芽生え始めた20世紀初め、ラッチェンスは古典主義建築のオーダーをどう住宅の立面に応用するかを、 19世紀の英国の先達が苦心したように真剣に検討していた。

さらに外側の付柱の柱頭の下は、ラスティケーションの壁の中に消滅している。 イタリアのマニエリスト、ジュリオ・ロマーノを思わせるラッチェンス最上のウィット、ジョークだが、 この“消えるピラスター”を、ペヴスナーは“シリー・ジョーク”として否定した。  ポルタ・パリオ

 ポルタ・パリオ




13.ラッチェンスの設計手法

これまで見て来たように、ラッチェンスの設計手法には、いくつかの意識的と思える 知的操作が見てとれる。気がついた所を次にあげてみようと思う。

@)軸線による全体構成
全体の平面配置はシンメトリーを基本とする。その対称軸以外に、いくつかのサブの軸 線が導入され、庭園まで含めて、このXY両方向の軸線(例外的にグレイ・ウォールズのよ うなダイアゴナルな軸線も現れる)に沿った平面の構成がなされる。
例えば、ディーナリー・ガーデンの平面には、エントランスから庭園の橋を経て果樹園に至る軸と、 コートヤードと建物の中心軸、そしてパーゴラの軸線と いう3本の南北軸と、それに直行するやはり3本の東西軸が明確に見てとれる。

A)部分と全体の齟齬
各面のエレヴェーション、各部屋の内部における人の視点から平面は再検討され、部分 における空間の構成原理は全体の構成原理とは別途に考察され、全体構成との間に起る齟齬は、そのまま表現される。
例えばヒースコートにおける玄関の間、ホールそれぞれの部屋の中での対称軸と全体の対称軸とのズレ、 リトル・セイカムのホールの対称軸と全体の対称軸のズレ。

B)内部と外部の齟齬
内部の機能的要求、或いは構成原理から来る条件と、外部の状況的要請、或いは構成原 理から来る条件とは、それぞれ別々に考慮され、表現され、内部と外部の表現の乖離やズ レは、そのまま表現される。
例えばグレイ・ウォールズにおける湾曲した立面のファサードと内部の設備部門の平面とのズレ、 リトル・セイカムのホール部分の内部空間と外観との表現の乖離。

C)人の動線と軸線とのズレ
ヴェンチューリは「建築の多様性と対立性」の中で、“ギャラリーの入口は、強い方向性 をもった空間でありながら、にも関わらず、突き当りの壁は盲となっている”と、ラッチ ェンスのミドルトン・パーク(下図)を対立性(コントラディクション)の例としてあげている。
シンメトリーの対称軸にエントランスをとり、人を導いておきながら、途中に盲壁(多くの 場合、反対側はホールの暖炉になっている)をもってきて、動線を迂回させる平面構成を ラッチェンスは、多くの邸館で採用している。

ヒースコートも、その代表的な例で、人は軸線と離れてダイアゴナルな動きを強制される。
先に見た論文の中でインスキップは、この理由として、建物を大きく見せるためだとしている。
その証拠にこの操作が行われるのは、比較的小さい邸館で、大きな邸館では対称軸 と動線のズレのないプランがいくつか見られるという。それも理由の一つかも知れないが、 むしろシンメトリーの全体構成を、空間を体験する、人の視点の側から部分を再検討し、 空間を緊張感のある豊かなものにする意図或いはラッチェンスのウィット、知的遊びの 表現かも知れない。

D)建物と庭園の融合
@)の軸線による全体構成で見る通り、軸線は建物内部だけでなく、当然ながら庭園の 構成にも適用され、建物と庭園とは一体に表現される。
インスキップの指摘によれば、初 期の邸館では、ホールが空間構成のヒエラルキーの核であるが、後期の邸館、グレイト・ メイサムやグレドストーンでは、庭園がむしろ核となって、建物が庭園の前室的な役割を 果している。

E)時間の表現
パピヨン・ホールのような増築の場合に、ラッチェンスは、その建物の由来や既存の形 態を尊重し、大事にしている。あるいは、ティグボーン・コートに 見られるのだが、新築でありながら、わざと違った様式の部分をくっつけて、 あたかもその部分だけ後で付けたされたような表現をしたりする。
家具についてもアンティークの家 具を漂白して使ったりして、全体に新品を嫌い、時間の経過を好んだ。
いつの時代の建物だか分りにくい、さまざまな時代の様式を混合して使用し、あたかも改装したり、増築 したりして何代も時間を経過した建物であるかのような表現をする。
こうした時間の表現は、一つには施主の多くがいわゆる成り上がり者であったことが原因かも知れないが、 より以上にラッチェンス自身のロマンティックなものを好む性向に由来している。

彼はこんなことも言っている。「私はむさくるしい家や、みすぼらしい庭は嫌いだ。私 は努力の跡を見せずに、優美さや明解さを表現したい」。


ミドルトン・パーク ミドルトン・パーク
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V.SIR JOHN SOANE(1753〜1837)
ジョン・ソーン卿博物館ーたゆまぬ逸脱


1.ロンドンの街並

僕にとって心に残るまちなみといえば、25歳から29歳までの3年半を
暮らしたロンドンのまちなみである。
煤の染み付いた、赤茶や,黄色、灰色、さまざまな焼き色の、構造体でも ある煉瓦の外壁、あるいは煉瓦を塗り込めた白い壁、天然スレート葺きの屋根、 ドーマー・ウィンドウ(屋根窓)、その家の暖炉の数だけ立ち
上がっている チムニーポット(土管の煙突)、サッシ・ウィンドウと呼ばれる縦長の木製 上げ下げ窓、これら“限定された構成要素”の“繰り返し”がつくる独特の 街並みの風景に、その後何回訪れても、訪れるたびに、強い愛着を覚えてきた。

これらテラスハウスの多くは、ロンドン大火(1666年)以後の18,19世紀の ジョージアン、ヴィクトリアンの時代に、投機の対象としてつくられたものだ。
まずは資産家が99年(初期はもっと短かった)の借地期限で地主から土地を借り、 小区画に分割し、自分で建設したり,職人達に貸して家を建てさせる。 その上で地代をつけて譲渡する。資産家は、建設によって地代が上がることで 利益を得、職人は家を建てて売ることで利益を得る。こうして大火の後、建設 ブームが始まり19世紀まで続いた。

テラスハウスの建設はまず土地の造成からはじまる。地階の部分の土を道路に 盛り土することで、道路とバックヤードに半層分のレベル差を人工的につくりだす。






この段々になった土地のことをテラスと呼ぶことから、テラスハウス、あるいは テラスと言う呼称が生まれたという事のようだ。
投機の対象としてみた場合、当然ひとつの道路に面して出来るだけ多くの住戸を 建設することが経済面から要求される。したがって間口の狭く奥行きの長い住戸 が定着したのである。

24ft(約7.32m)が大体間口の標準的数字である。この間口の狭さから、大体が、 前後に二部屋、片側に通路と階段というシンプルな平面構成で上下に重なっている。 したがって機能による各部屋の強い特徴づけが構造にまで及ばず、各階の各部屋 はどんな機能にも対応できる。
このことが、テラスハウスが普遍化し、長生き したひとつの理由である。元々意図されたわけではないが、いわゆる“スケルトン・ アンド・インフィル”になっている。都心部のテラスでは、多くがオフィスに転用 され、数戸をぶち抜いて学校やホテルになっているところもある。

中でも一番印象的なのが、今もリンカーンズ・イン・フィールズという地名の一角 にある「ジョン・ソーン卿博物館」である。30代後半から晩年まで40年かけて、 3軒のテラスハウスを徐々に買い足し、少しずつ改造していった元ソーンの自邸である。 ジョン・ソーン(1753〜1837)の、建築家としての思いが、シンプルなスケルトンの 中に凝縮され、多様なインフィルで満たされ、素晴らしい小宇宙を形成している。(下の写真は朝食室) (家とまちなみ54 0609)

ロンドンの街並 ジョン・ソーン卿博物館朝食室




2.ジョン・ソーン卿博物館

昼食のサンドイッチを公園のベンチで友人と食べ、近くに面白い建築があるから と、連れて行かれたのが最初の出会いであった。
その公園は友人の仕事場に近い、リンカーンズ・イン・フィールズであり、その建築は、 リンカーンズ・イン・フィールズNo.13、ジョン・ソーン卿博物館であった。 とにかく奇妙な建築であった。
長い昼休みを過ごして、その頃働いていた、ウェストミンスター寺院の近くのオフィスへ戻り、 今見てきた建築について、上司だったチーフのアイルランド人建築家に興奮して説明したのを憶えている。
彼は既に、そこが素晴らしい空間であることをよく知っていた。
ロンドンの中心部にあり、行きやすいということもあって、その後何度も足を運んだが、 何度行っても新しい発見があり、最初の興奮が冷めることはなく、行く度にその魅了された。
現存しているソーンの他の建築も見ようと、ロンドン滞在中にイングランド銀行、 ピッツハンガー・メイナー(その頃はイーリング公立図書館)、ダリッチ・アート・ギャラリー を観に行ったのだが、ジョン・ソーン卿博物館のような感動は何処からも受けなかった。 その理由は、最初の二つは内部を見られなかったことと、そして3つとも かなり激しく改変されていること、にある。
ジョン・ソーン卿博物館はいかにも特異な建物である。
博物館じたいが、かつては建築家自身の住まいであり、また 建築家が開発した建築言語の集大成からなる作品でもあり、しかもそこに集められ


ている膨大な数の展示物は、 彼が長年にわたって、建築家の目で選び、集めた古典建築の遺跡のかけら、建築に関係のある彫刻、 絵画(ピラネージもある)である。
さらにソーン自身の作品の模型、ドローイング(その多くが、ピラネージのイギリス版ともいえる、 幻想の建築家J.M.ガンディによって描かれたもの)、つまりソーンという建築家のすべてがここに 集められている。
そして、ソーンの死から現代にいたる1世紀以上の間、博物館として一般に公開されているという事実 それだけでも、圧倒されてしまう。

ソーンは1806年(53歳)、ジョージ・ダンス2世の後を受けて、ロイヤル・アカデミーの教授になった。
その時の講義録が残されているが、その中でソーンは、「建築は、絵画や彫刻のように模倣の芸術ではなく、純粋に発明の芸術である。 そしてこの発明というのは、人間の精神にとってもっとも困難で骨の折れる作業である。(講義7)」と言っている。

ソーンは同時代のジョージ・ダンス2世や、前の時代の建築家たち、ロバート・アダム、ジョン・ヴァンブラ等の影響を受けながら、 次第に独自のヴォキャブラリーを発明し、それを繰り返し自身の建築の中で使い、発展させる。 そのエッセンスといえるものが、この博物館の空間には凝縮され、密度の高いソーン建築の小宇宙を形成している。
ジョン・ソーン卿博物館断面 ドーム




3.建築家ソーンの形成過程

高名な建築史家であり、ジョン・ソ−ン博物館の館長でもあったジョン・サマ―ソン卿によれば、ソーンの経歴は、 次のように大きく5つの時代に分けられる。
「第1期」修練の時代1776〜80(23〜27歳)
主にフランスのネオ・クラシシズムからの影響を受ける。
ピラネージのドローイングから直接的イメージが来ている、 凱旋橋(トライアンファル・ブリッジ)のデザインで、ロイヤル・アカデミーのゴールド・メダルを獲得し、 1778年から2年余りイタリアに滞在する。このイタリア滞在は、古建築を学ぶ機会だけでなく、ソーンにとってその後 重要なパトロンになる人々との出会いの機会になる。
また死の直前のピラネ−ジ(1720〜78)に面会している。

「第2期」初期実務時代1780〜91(27〜38歳)
1781年に、父の事務所を継いだばかりのジョージ・ダンス2世からの依頼で、ニューゲイト監獄の再建の仕事を手伝う。 (ソーンが15歳の時初めて修行のために入った事務所がジョージ・ダンス事務所であった。)
ソーンはダンス2世から多くの影響を受けた。ふたりは年齢も近く、 (晩年には仲違いをしているが)仲のよい友人でもあった。
イタリアで知遇を得たトーマス・ピットからのしごとを手始めに、ソーン自身も事務所をスタートさせ、 多くの小規模なカントリーハウスの設計を行っている。
そして15人の競争者を抑えてイングランド銀行の建築家のポストを獲得する。競争者の中にはジェイムス・ワイヤット、 ヘンリー・ホランド(ソーンは17歳のとき、実務面の不足を感じて、ホランド事務所に移っている)、S.P.コッカレルと いったそうそうたる建築家が並び、この勝利が異例であったことが分かる。イタリアで知遇を得た トーマス・ピットに紹介された、時の首相ウィリアム・ピットの力によるところ大であったようだ。

「第3期」中期実務時代1791〜1806(38〜53歳)
最も実りの多い時期で、ソーン独特のヴォキャブラリーのほとんどはこの時期に確立されている。
師であり友でもあったダンスと、最も交流を深めたのもこの時期である。
そしてソーンにとって最大の幸運は、1790年に裕福な建設業者であった、妻の伯父ジョージ・ワイヤットが亡くなり、 莫大な遺産を継いだことである。 経済的な心配がなくなり、下積み仕事をしなくて済み、またイングランド銀行を始めとしたよい仕事にも恵まれ、 建築家にとって、これ以上望めないような、理想的な立場におかれた。
1792年にソーンは初めて自分の家を持とうと、リンカーンズ・イン・フィールズNo.12を購入する。
最初は改築を考えたが、結局は建て直された。そして博物館の収蔵品になっている品々の収集をスタートさせる。


「第4期」ピクチャレスクの時代1806〜21(53〜68歳)
さまざまな辛い事件が重なった時期である。
1806年にロイヤル・アカデミーの教授になるが、 おそらくそれに関連して、ダンスとの仲違いが始まる。そして息子たちとの不和。
1815年息子のジョージが雑誌上で父親の建築を批判する記事を発表した。ソーン夫人はそれまでも病気がちであったが、 その記事が引き金になったかのように、数週間後に病没する。
この時期、新しいヴォキャブラリーの発明はなく、中期に開発したアイディアを、よりピクチャレスクに開花させている。
実用的な目的で、銀行に使われたトップライトが、よりピクチャレスクな形で多用されるようになる。
ソーンの最高傑作のひとつである、ダリッチ・アート・ギャラリー、 そしてリンカーンズ・イン・フィールズNo.13(現在の博物館部分)は、この時期の仕事である。

「第5期」晩年 1821〜33(68〜80歳)
孤独な時期。
最高裁判所(1820〜)、枢密院(1824〜27)、フリーメイソンズ・ホール(1826)、 などの大規模な公共建築を設計しており、しかもこれらは非常な批判を受けることになる。
この時期には再び、 (ソーン的な新しいディテールを加味してではあるが)ネオ・クラシシズム的傾向に戻っている。
この時期はまた、アンティーク収集の最終段階であり、ジョン・ソーン博物館が今の形に結実する。


ソーンの基本的なヴォキャブラリーが開拓されたのは第3期、特に38歳から45歳頃の数年間のことで、 その後のピクチャレスクの時期には、それをただ発展させただけだといわれ、ソーンは 「自身のスタイルの囚人であった。」とサマーソンは言う。
そしてこの時期ソーンは、 師であり友であったジョージ・ダンス2世と緊密な関係にあり、ダンスとの討議、助言がこれらのヴォキャブラリーを 作り上げたといわれる。ソーンのスタイルは、一人の人間の仕事ではなく、二人のものであると。
もちろんソーンの独特の性向がそれを完成させたのではあるが、ダンスとの関係がなければ、そのスタイルは生まれなかった。 ソーン卿博物館にあるソーンのデザインした引き出しには、ダンスのドローイング・コレクションが納められ、 まるで聖域のように扱われていたという。
特に、後で触れるソーンの重要なヴォキャブラリーである、ドーム・アンド・ランタンのモチーフも、ジョージ・ダンス2世の 影響下で展開され、完成されたものである。
ジョン・ソーン卿博物館 ジョン・ソーン卿博物館




4.朝食室-the poetry of architecture

「この部屋から見えるモニュメント・コートやミュージアム(ドーム)の景色、さまざまな輪郭を映す、天井にはめ込まれた鏡や姿見、 この限られたスペースに施された、こうしたデザインや装飾の総体は、想像力をかきたて、 建築の詩the poetry of architectureを齎す。」ソーンは自邸の朝食室についてこう語っている。

ここには、まずソーンの代表的なヴォキャブラリーであるドーム・アンド・ランタンの形態モチーフが使われている。
このモチーフが最初に完成度の高いものとして実現したのは、イングランド銀行のストック・オフィスである。
原型になったのはダンスのギルドホールの市議会議場(1777〜78)で、四角の部屋にペンデンティヴによって、 ドームが載り頂部が開口(オキュラス)になっている。
もう一つのヒントは、イングランド銀行のソーンの前の建築家、 ロバート・テイラー卿による、銀行内のレデュースト・アニュイティーズ・オフィスだが、ここでは天井はフラットになっている。
ソーンのストック・オフィスでは、柱からペンデンティヴが伸び、その上に円周上のクリアストーリーがあって、 浅いドームが載っている。
ダンスやテイラーの空間と違うところは、ペンデンティヴを支持する4本の柱が、壁から浮いていて、スペース・イン・スペース の構成になっているところである。
天井によって限定されるスペースを、部屋の四周の壁から離す手法は、ソーンの建物に多く見られる特徴で、 この朝食室でも、それによって出来るスリットに、トップライトからの光を落とし、壁にバウンドさせている。


クリプト(地下納骨堂)部分およびミュージアム(ドーム)も、壁から浮いた4本の柱で支持された、 スペース・イン・スペースを形成している。 イングランド銀行のストックオフィスに戻ると、おそらくスケールダウンする手法として、ペンデンティヴには縞状の刻みが、 柱にも垂直の刻みが入っている。
またペンデンティチヴの中心にはパテラ(円形の浮き彫り装飾)が、 そしてグリーク・フレットと呼ばれる、(ラーメンの器の縁にある模様に似た)文様が見られる。 この文様はソーンの建物に繰り返し現れる。

これらは厳密な古典言語の文法からは、少しずつ逸脱しながら、ソーンの個人的テイストに従って現れてくる。
このとき完成されたモチーフがサマーソン卿が、ドーム・アンド・ランタンと呼ぶモチーフである。
サマーソン卿の説明によれば、このモチーフにはポジとネガがあって、両者ともに、 ソーンの生涯にわたる作品に繰り返し使われるのである。
ポジのほうで言えば、今までに見たように博物館の朝食室、 イングランド銀行のストックオフィスの他に、イングランド銀行のコンソル公債事務所、オールド・デヴィデント・オフィス、 ピッツハンガー・メイナーのパーラー、コート・オブ・エクスチェッカー、フリーメイソンズ・ホールなど、たくさんの例がある。
ネガの例は、ダリッチ・ギャラリーの霊廟の屋根の頂部、夫人の逝去時にデザインされたソーンの墓、 ピッツハンガー・メイナーのゲートの頂部などである。これらネガの頂部にはさらにその上に、 骨壷状のモチーフが必ず載っている。
イングランド銀行ストックオフィス ドーム・アンド・ランタン




5.ダリッチ・アート・ギャラリー-lumiere mysterieuse

1776年27歳のとき、ロイヤル・アカデミーのゴールド・メダルを狙って、凱旋橋のデザインを進めていた頃に、 仲間の誕生祝にテームズ川の舟でパーティーを催すという、誘いがあったが、ソーンは勤務時間外も日曜日も、 その準備で忙しく、その誘いを断った。不幸なことに、そのパーティで仲間の一人が溺死してしまう。
このあとソーンはゴールド・メダルを見事獲得するのだが、この事件にひどく心動かされ、 その友人ジェイムズ・キングのために 墓所のデザインを捧げている。
その後、ソーンは死ぬまで、死に関するデザインを数多く残している。
ピッツハンガー・メイナーのライブラリーは、アンティークの骨壷が、部屋の四周の壁のニッチに、所狭しと納められ、 パーラーには、暖炉の向かいにアンティークの骨壷が飾られている。
リンカーンズ・イン・フィールズの自邸の地階にも、地下納骨堂(クリプト)や地下墓地(カタコウム)といった部屋がある。

ダリッチ・ギャラリーのコレクションはパリから英国に渡ってきたノエル・デザンファンという アート・コレクターの残したコレクションと 遺産によって成り立っている。
デザンファンの死後、彼に庇護されていたスイス出身の画家フランシス・ブルジョア卿が、デザンファンの遺言に従い、 ロンドンのシャーロット・ストリートに、ソーンに依頼して霊廟を建てた。 ソーンとはロイヤル・アカデミーでお互いに見知っていたのである。
この霊廟がやはりドーム・アンド・ランタンのモチーフで、後のダリッチ・ギャラリーの霊廟の原型になっている。
ダリッチ・ギャラリーを訪れた時に、実際にガラス越しに見た霊廟内部は、第2次大戦で空襲にあって、修復はされていたが、 大分プアーな印象でがっかりした。
これに対してガンディーの描いたシャーロット・ストリートの霊廟ドローイングは素晴らしく、 光の入り方の表現で空間に抑揚を与えている。


プランで見ると、どうも先ほどのランタンは、6本の円柱と2本の付柱に支持されたドームにはなく、 そこから外れた部分に石棺がおかれ、上からの光が落ちている。 色ガラスを使った黄色の光で、こちらのドーム側はむしろ薄暗く、 アーチを透して光がこちらに流れてくるような構成になっていて、博物館の朝食室の壁際の光の落とし方に似ている。
光源を直接見せず、壁に反射させながら、光を導入し、空間に陰影を与えるドラマチックな光の扱いは、 ソーンのその後の建物にもたびたび現れる。ガンディーの描くドローイングには、この効果が強調されて表現される。 これはlumiere mysterieuseという言葉で表現されている。

ダリッチ・アート・ギャラリーはソーンの建物の中で、最もオリジナリティの度合いが高い完結した建築で、 プランを見ると、ヴェンチューリが喜びそうな、壁の層構成が見られ、霊廟はアーティキュレートされて、 左右の翼が伸び、抑揚の効いた構成をしている。
それは立面にも反映されて、壁面の凹凸、壁の高さの違いで、アーティキュレートされた表情豊かな構成になっている。 特にスカイラインは、さまざまな突起で、豊かな表情を見せて、 ジョン・ヴァンブラ(1664−1726)とニコラス・ホークスムーア(1661−1736)が設計したブレニム宮(1724)を髣髴とさせる。
ソーンはジョン・ヴァンブラ卿を尊敬しており、 講義録の中で、建築の世界のシェークスピアであると賞賛している。
ちょうどダリッチ・ギャラリーを設計している頃の講義でも、 「発明に関しては、この国で彼(ヴァンブラ)に並ぶ人はいない。大胆で自由な空想力、 彼の作品のすべては限りない多様性に富み、それぞれが違った性格を持っている。」と言っている。
サマーソン卿はヴァンブラのシートン・デラヴァルからの影響を指摘し、さまざまな高さの、 さまざまな突起の組み合わせが、このダリッチ・ギャラリーで、具現化されており、 こうした質を持った建築はソーンの時代には、ソーンの建築以外に例がないと言う。
ガンディによるシャーロット・ストリートの霊廟 ダリッチ・アート・ギャラリー




6.ドーム−ソーン卿と死の装具

ソーンは、1792年に最初にNo.12を購入し、 これも彼の建物に繰り返し現れるヒトデの形をしたモチーフの天井の朝食室を作った。
その後1800年にはイーリングのピッツハンガー・メイナーを別荘として購入し、これを建て直した。 これには二人の息子への芸術教育の意味もあったという。
したがってリンカーンズ・イン・フィールズでの動きは、大分間が空いて、1808年にある。 この年ソーンはNo.12の後ろの部分をNo.13に伸ばし、ここにドーム(ミュージアム)と呼ばれる部屋を作った。
先に触れたようにノエル・デザンファンの死後、その遺志を引き受けて、ブルジョアは、 シャーロット・ストリートの厩の跡にソーンに依頼し、墓所をつくった。
自宅に埋葬するという、デザンファンのこの アイディアに影響を受けて、博物館のドームと呼ばれる部分の地下には、最初、“霊廟”という室名が図面には書かれていたという。
後にこの室名は消えたが、ドームへのこの性格付けは最後まで残った。
ソーンの建物のために、豊穣なイメージのドローイングを数多く残したJ・Mガンディは、ソーンとは対照的に 悲惨な人生を送った。(このことはジョン・サマーソン卿の名著「天井の館」SD選書鈴木博之訳の゛J・Mガンディの幻想の章に詳しい。)
その多難な人生を反映しているのかどうかは不明だが、彼は洞窟や地下墳墓(カタコンブ)に非常な興味を抱いていた。
彼はジェイムズ・ワイヤットの弟子であった頃の1790年に、「1つの墳墓」というドローイングを ロイヤル・アカデミーに提出しており、1800年には「墳墓の室」、1802年には「地中の寺院」、 1804年には「墳墓の燈台」、そして1838年に「鋳鉄製の古代墓地」をそれぞれ出品している。
その頂点というべきドローイングは、現在RIBAに保存されている「マーリンの墳墓」(1815年)である。
ソーンは受け取らなかったが、この作品はソーンに贈られたたものだった。
「大理石は清らかに輝き、そこには太陽は射し込まず、墳墓そのものが洞窟全体を照らす。」



このイメージはソーンに多大な影響を与えた。
1817年エジプト総領事ヘンリー・ソルトの保護の下に、ベルゾーニという人がセティ一世の 雪花石膏(アラバスター)製の石棺を発見した。
ソルトは1821年にイギリスに運び、大英博物館に設置したが、 政府がお金を支払おうとしなかったので、2年後にはソーンの所有するところとなり、ソーンはこれを、 自宅のドームの下、クリプトに設置した。
ガンディのイメージに触発されたソーンは、この光を透すアラバスターの石棺の中にランプを置いて、 「マーリンの墳墓」のイメージを現出させた。
サマーソン卿は「ジョン・ソーンと死の装具」(AR1978年3月号)のなかで、こうしたソーンの 建築と死の装具との結びつき、あるいは執着を、解き明かしている。
ソーンには他にも「ピット記念碑」という死に関連した重要な作品がある。ウイリアム・ピットの記念碑で、 2階部分の床に円形の開口があり、その上のトップライトから最下階にまで、光が降り注ぐ、 「トリビューン」と呼ばれる縦長の空間構成になっている。
この構成は、ティリンガムのカントリーハウス(1793−1800)のエントランスホールにも使われる (ここでは開口は楕円形である)。
ジョン・ソーン卿博物館のドームは、床の開口が円形や楕円形ではなく、大きく一杯に開かれているので、 正確には他のものとは少し異なるが、縦長の空間構成は一連の「トリビューン」のひとつの発展形と見られる。
このドームの空間のガンディによるドローイングは、ネオクラシシズムのキーワード 「サブライム(壮大な、荘厳な)」という言葉を想い出させる、ソーンの意図した光と影、 壮大なスケール感を拡大してみせた、素晴らしいドローイングである。
トップライトからの光と、 アンティークのコーニスの断片の、背後に隠された光源からの間接光によって、 ドラマティックな表情を与えられている。
もう一枚別の角度からのドローイングでは、 光は、地下のクリプトにある光源から、壁にかけられた多数のアンティークの破片に 当たって、複雑な陰影を作りだしている。こうした光と影の遊びこそ、ソーンの重要な主題であった。

ガンディによるドーム素描 別の角度からのドーム素描 セティ一世の石棺が置かれたC.J.リチャードソンによるドーム素描




7.ソーンから学ぶこと−私的プロポーション

自邸=博物館の朝食室とドームを中心に、ドーム・アンド・ランタンとトリビューンという、 ソーンが第3期に創作し、その後繰り返し使った、2つの空間構成のモチーフについて見てきた。
ソーンの建築はほとんど全て、この2つのモチ−フのヴァリエーションで出来ていると、 言い切れるほど、彼はこれらに固執し続けた。 この2つのモチーフに、次にあげるいくつかのソーン特有のテイストが加わって、ソーンの建築は出来ている。

1.スペース・イン・スペース
朝食室、ドーム、ストック・オフィスで見たように、柱でかこまれ、ドームのかかったスペ−スが、 室の中で独立して、浮いたスペースになっている。あるいは博物館のファサードのように、 主要な構造部の表面にもう一枚の壁を浮かせて、透いた層構成をつくる。
これはダリッチ・アート・ギャラリーの列柱にもみられる。 ルイス・カーンや、ヴェンチューリやムーアにも同じような嗜好が見られるのはおそらく ソーンの影響があると思われる。

2.隠された光源からの光
これによって、先に触れたようにソーンの作る空間に劇的な効果をもたらし、 lumiere mysteriseuseと呼ばれる。
隠された光源から、空間に光を、屈折させながら導入するやり方は、やはりルイス・カーンも意識的に使っている。
またトップライト、そして色ガラス。鏡や凸面鏡を使った、光と陰影の遊び。

3.死の装具へのこだわり
この時代に大量に発見され、持ち帰られたアンティークの品々からの影響と、 ネオ・クラシシズムの“サブライム”“ピクチャレスク”の概念と結びついたテイストで、 ソーンの生涯を通底したテーマになっている。



4.古典文法からの逸脱、平面性
おそらくは他の建築家からの批判の対称になった要素で、これもジョージ・ダンスからの影響が大きい。
平面性はモダニズムに通じる。平面性には切り込まれた線的な装飾による、独自のスケールダウンの手法も付加される。

5.醜いプロポーション
意識的にプロポーションを外すことは、ソーンの建築を特徴付ける大きな特性である。 講義録の中でソーンは、プロポーションのセオリーというものは、適切でも、有用でもないと、言い切っている。
そして古典建築の文法のプロポーションから逸脱し、ソーン独自のプロポーションを採用する。 これまたダンスからの影響下で、ソーンが確信していったものである。

5の古典的プロポーションから逸脱、独自のプロポーションへの固執は、 同時代の建築の古典文法へのこだわりが背景にあったからこそ、それからの逸脱が意味を持ったわけだが、 それだけではなく、見慣れた形態を外し、整ったもの、きれいなプロポーション、共通する美意識、 一般的な美の感覚を外して、意識的に逸脱した、醜いといえるような方向を志向し、 個人的なテイストに置き換えるソーンの姿勢は、今でも、とても魅力的で示唆的だと思える。
共通項で考えられるようなプロポーションで出来ていないところが、 あるいはすぐ読めてしまうような単一のストーリーで出来ていないところが、 何度訪れても新しい発見があり、人を飽きさせない、ソーン博物館の魅力になっているのだと思う。
そこではさまざまな読み方を可能にするような、多様な操作が行われ、 ソーンという建築家の匂いが感じられる。
ジョン・ソーン卿博物館を訪れると、常に建築を愛し、今ある建築の枠から逸脱し、 常に自分のテイストに忠実であったソーン、その建築観を、感じることが出来る。(カラムNo98 8510)
F.コプランドによるドームと朝食室断面 朝食室断面図・平面図
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W.NICHOLAS HAWKSMOOR(1661〜1736)
ニコラス・ホークスムーア−ローマへの憧憬―

1.キャッスル・ハワード

英国の建築事務所HKPA、そしてGLCで働いて3年程が経って、そろそろ日本に帰ろうと思っていた頃、友人家族と一緒にスコットランド旅行に出掛けた。
その途中ヨーク近郊のキャッスル・ハワードに立寄った。1975年のことである。
ニコラス・ホークスムーアのキャッスル・ハワードには前々から機会があれば、是非行ってみたいと思っていた。

キャッスル・ハワードは、壮大なカントリー・ハウスで、まず、その敷地の壮大さに驚かされる(敷地は1000エーカー、約405万uという)。
これ程壮大な敷地に建築をつくれたらどんなに気持ちがいいだろうとまず最初に思った。
小さい子供を連れての旅行で、次の目的地へのスケジュールもあり時






間が限られていたので、庭園に建つ二つの点景、 ヴァンブラのテンプルとホークスムーアのモーソリウムを見るために、友人と2人で芝生の庭園を走った。
ところが、走っても走ってもなかなか目的の所につかず、庭園の壮大さを実感した。モーソリウムは結局柵があって近くには寄れず、 遠くから眺めるのみであったが、起伏のある広大な芝生、そして点在する小さな森の塊りとなった樹木の集合、 細長い湖にかかる石造の橋、そして背景となる空の青さ、しつらえられたピクチャレスクな風景の中にあって、 静寂なモーソリウムの姿には、息をのんで見とれてしまった。このモーソリウムは、キャッスル・ハワードの建築群の中でも、 後期のもので、ヴァンブラ亡き後、ホークスムーア1人の設計に依る。
邸館自体はジョン・ヴァンブラ卿(1664-1726)をホークスムーアがアシストする形で設計された。

キャッスル・ハワード
ヴァンブラはホークスムーアより3歳年下で、1664年、富裕な精糖業者の息子としてロンドンで生まれた。
父親はフランダースからの亡命者、母親はダッドレー・カールトン卿の娘、この両親の元、 紳士として育てられ、22歳の時にハンティントン伯爵の連隊に参加した。 連隊をやめた後、フランスでスパイ容疑で逮捕され、3年半投獄され、出獄したときは29歳になっていた。
バスティーユの牢獄にいる頃から戯曲を書きはじめ、釈放後、ウィットに富んだ喜劇「堕落」を1696年、 32歳の時に、「腹を立てた女房」という劇を次の年に上演してロンドン子を沸かせたという。
その後1700年、1704年、1705年にもさらに戯曲を上演し、その数は10本にも及んだ。そのウィットが好まれ、 ホィッグ党員のクラブ、キット・キャット・クラブに会員として迎えられ、そこでキャッスル・ハワードの依頼者であるカーライル伯爵と知り合った。
カーライル伯爵は、すでにチャッツワースなどカントリー・ハウスの設計に定評のある建築家ウィリアム・トールマン(1650-1719)に、 キャッスル・ハワードの設計を依頼していたが、報酬の件などで途中うまくいかなくなり、たまたま知り合ったそれまでに建築経験のない、 若いヴァンブラに白羽の矢が立てられた。ヴァンブラが35歳の時である。


建築の経験のないヴァンブラをアシストしたのが、ニコラス・ホークスムーアである。 ホークスムーアの経歴は、ヴァンブラとは対照的である。ノッティンガムシャーの農家に生まれ、最初ヨークシャーの判事の書記をしていたが、 高名な左官職人の紹介で18歳の時ロンドンに出て、建築家クリストファー・レン卿(1632-1723)の書記となる。
21歳の時にはすでにレンのチェルシー病院の設計を手伝うようになる。1680年代にはロンドンの教会の仕事に従事する。 1689年にはハンプトン・コートの設計の責任ある立場にあり、1691年以降セント・ポール大聖堂をレンの助手として手伝う。

キャッスル・ハワードにおいて、ヴァンブラのアイディアは経験豊かなホークスムーアによって形にされディテールの肉付けを施された。
ヴァンブラとホークスムーアは階級も教育も経験も全く違っていた。
ヴァンブラが機智に富み、積極的な性格であったのに対し、 ホークスムーアは気むずかしく、気まぐれで消極的な性格であった。2人の階級差は、 ヴァンブラの死まで2人のパートナーシップを存続させえた一つの大きな理由のようである。



モーソリウム クライスト・チャーチ
出来上った建物のどの部分がヴァンブラで、どこがホークスムーアであるかを識別するのは、不可能だろうし、 またあまり意味のあることでもない。ヴァンブラ作といわれるキャッスル・ハワードのテンプル・オブ・ザ・フォー・ウィンズ(四風亭)や、 シートン・デラヴァルや、ホークスムーアのモーソリウム(上図左)や、スピトルフィールズのクライスト・チャーチ(上図右) などのロンドンの六つの教会その他、 各々の独自の仕事を見ると、大体の想像はできる。何れにしても、2人が共に卓越した建築家であったことには間違いがない。

建築史家ジョン・サマーソン卿によれば、ヴァンブラとホークスムーアはお互いにそれぞれの知識と独創性を熟知していて、 それを分けあい議論を重ねながら創っていったもので、個々の部分についての貢献度を分離することはできないと言う。
ジョン・レノンとポール・マッカートニーの共同作業にも似た設計過程があったと想像するのが楽しい。
彼の推定では、キャッスル・ハワードやブレニム・パレスの構成の新しさは、おそらくヴァンブラのもので、 このヴァンブラの冒険に適切な表現を与えたのがホークスムーアだと言う。
特にホークスムーアは学究的で、建築のあらゆるソース・ブックに明るく、 英国建築についての知識が豊富で、それらの建築的な意味を再発見していた。
とにかくヴァンブラとホークスムーアという、資質の違う2人の天才が共同して、キャッスル・ハワードやプレニム・パレス という素晴らしい建築をつくったのであり、どちらか1人が欠けてはこれら二つの傑作は存在しなかった事は確かである。

中央ホール中央ホール

コリン・キャンベルが1715年に英国の古典主義を集めて出版した“英国のウィトルウィウス Vitruvius Britannics” に納められた図版では、キャッスル・ハワードは、中央にホールとサロンが縦に重なり、 サロンの両横に東西にアパートメントと呼ばれる部屋が並ぶ。
そして北側には東西翼が伸びて、 それぞれキッチン・コート(厨房の中庭)とステイブル・コート(厩舎の中庭)と呼ばれる中庭を囲んだサービス部分の建物群が続いている。
コートを囲む二つのブロックの真中に更にグレート・コートがあり、全体が殆どシンメトリカルに広がっている。
南立面をみると中心のホールとサロンの部分が2層分の高さになっていて、アパートメントの部分は1層分の高さになっている。 その中央にはドームがのっている。

この頃レン設計でホークスムーアも関わりのあるグリニッチ・ホスピタルやセント・ポール大聖堂のドームのデザインが決まった頃で、 英国における大規模ないわゆるドーム・アンド・ランタン(ランタンとは周囲に開口のある円形または多角形の小塔で、ドームや屋根の上に載っている) の最初の例で、このモチーフは英国の私的な邸館ではキャッスル・ハワードに最初に現れた。
キャッスル・ハワードの建設は、1701年にスタートした。1714年頃に中央部と東側の翼部及びキッチン・コートは完成した段階で、カーライル伯爵の興味は 庭園やアプローチといった外部に移ってしまい、西翼には手が付けられなくなってしまった。
現在の西翼ができたのは、ヴァンブラやホークスムーアの死後、カーライル伯爵の義理の息子トーマス・ロビンソン卿によってであり、 “英国のウィトルウィウス”の図版とは相当違うものになった。
現況の西翼部は、トーマス・ロビンソン卿によって、1753年から1759年の間に完成している。
彼はホークスムーアがモーソリウムを建てている頃にも、カーライル伯の相談役となり、ヴァンブラ、ホークスムーアの設計に さまざまな改変を加えている。
現在一般公開されている部分のエントランスは、このロビンソン卿による西翼の北正面にあって、エントランスを入るとすぐに大階段があって 内部に導かれていく。このあたりの空間構成は、ヴァンブラ、ホークスムーアと違いはするが、なかなか壮大でいい構成であったのを覚えている。

なんといっても圧巻なのは中央部のホールである。平面は52ft(約15.8m)平方の正方形なのに対して、天井高が70ft(約21.3m)もある。
巨大な暖炉、アーチの重なり、圧倒的な、複数のジャイアント・オーダーが支持するペンデンティブ、そしてドームには高窓からの光があたって、 ドームに描かれた、4頭の馬、馬車、浮かぶ人、それらが雲の上に浮遊している、明るい色彩の絵が、ドーム自体を軽く空中に浮遊させているような 印象を与える。ジャイアント・オーダーや暖炉などの重量感によって、余計にドームの軽やかさを強調されている。
ついでながら、大理石のように見える暖炉は、実はスカリオラと呼ばれる、石膏に大理石片または着色剤を混ぜた模造大理石で出来ており、英国では割と初期の例で、 この後普及して多く用いられたという。

このホールはブレニム・パレスのホールに比べても、壮大で人を驚かせる誇大妄想狂的な空間操作があり、この部分ははブレニムより面白いと思った記憶がある。
ブレニムの外観に現れる力動感が、キャッスル・ハワードでは内部に、ブレニムより強く表現されている気がする。

―下図“英国のウィトルウィウス Vitruvius Britannics”
左キャッスル・ハワード、右ブレニム―
キャッスル・ハワードブレニム
2.ブレニム・パレス

 ヴァンブラは、キャッスル・ハワードの設計を依頼された翌年、カーライル伯によって、 建築局の監査官に任命された(前任者のトールマンは解雇されている)。資格もないままにレンの同僚になったのである。
その後トーリー党が彼から一時監査官役を剥奪したが、アン女王の死後、職に復した。

1705年、ブレニムの戦いでルイ14世下のフランス軍を打ち負かしたマールボロ公爵にアン女王はオックスフォードの西北15キロの所にある、 ウッドストックの広大な土地を与えた。そこに新築するカントリー・ハウスの設計の仕事を、次にヴァンブラは依頼された。
ここでもヴァンブラは、ホークスムーアとの共同でこの設計を行った。このブレニムの仕事はヴァンブラにとって素晴らしい成功談であった一方で、 様々なトラブルの伴う仕事であった。
マールボロ公の夫人サラの攻撃的な性格にあって、うまく行かなくなったり、 また1711年のトーリー党の勝利によるマールボロ公自体の解職もあったりして、最終的には、ヴァンブラはこの仕事から外され、 ヴァンブラの死の直前に、ホークスムーア1人の手で完成された。



ブレニム・パレスは、ウインストン・チャーチル(マールボロ公、ジョン・チャーチルは、チャーチルの祖先にあたる)の出生の地として現在では有名で、 チャーチルの幼少時の髪の毛が飾ってあったり、観光名所となっていて、僕が訪れた時も丁度休日だったこともあり、中庭に長蛇の列ができていた。

ブレニム・パレスの平面は、キャッスル・ハワードに似て、厳格なシンメトリカルな構成で、やはりグレート・コートを真中にして、 東翼はキッチン・コート、西翼はステーブル・コートを控え、中央部にサロンとホールがある。
キャッスル・ハワードでは、 キッチン・コートとステーブル・コート(前にみたように実際には建設されなかったが)、そしてグレート・コートも皆、北側、庭園側に向って開いているのに対し、 ブレニムでは、キッチン・コートと、ステーブル・コートは、中心のグレート・コートに向かって、囲い込む形に開いていて、グレート・コートが全体の中心として、 平面全体に求心性を持たせている。
キャッスル・ハワードと比較すると、より密度の高い凝縮された感じの平面構成になっている。
ブレニム・パレスブレニム・パレス
ホールとサロンの関係は、キャッスル・ハワードと同じだが、キャッスル・ハワードでは一直線に東西に伸びたアパートメントが、 L字型に廻り込んで、さらに小さな中庭を囲い込む形になっている。
キャッスル・ハワードとは違って、中央のホールの部分が現状でも、観光客用のエントランスになっていて、人はまず吹抜のホールに入る。
ホールは天井の高い壮大な空間で、高窓からは光が差しこむ。
突き当りのアーチを抜けてサロンに入る。アーチの下のギャラリーで楽隊が吹奏することもあったという。
サロンは公式の食事をとる室として使われる。サロンのドア枠の上のアーチのキーストンの部分は、貝殻の形をしている。
そのドアを通り抜けると東側のアパートメント部分に入っていく。
南北に伸びた東翼部は公爵と公爵夫人の私的なアパートメントで、 その中心の半円形突出した部分を持つ部屋が私的なダイニングである。
反対側の西翼部の南北に伸びたギャラリーと呼ばれた部屋は、 ヴァンブラが去って後(1722-25)、ホークスムーアが公爵夫人の要請で図書室として設計しなおした部屋で、ロング・ライブラリーと呼ばれている。


公爵夫人の息子サンダーランド伯が1722年に亡くなって、その図書室を急遽ここに移すことになったためで、壁面に書棚が埋め込まれた。
この図書館は細長く120ft(約36.5m)もあるのだが、両端は正方形で天井が高く、高窓のある部分、中央には大理石のアーチの入口の向い側に、 半円に突出した部分がある。つまり平面的には五つの部分に分節されており、豊かな空間構成となっている。
ホークスムーアはこの直前(1715年)にオックスフォードのオール・ソウルズのコドリトン図書館でやはりリニアーなライブラリーを設計している。 またケンブリッジのユニークな円形の図書館、ラドクリフ・キャメラ(下図左)もホークスムーアが原案をつくったライブラリーである。

ブレニムの平面はキャッスル・ハワードの発展形と言えるが、外観は全く違ったものになっている。キャッスル・ハワードが優しく、 静的な印象を与えるのに比べ、ブレニムは力強く力動感あふれる外観をしている。ヴァンブラ自身も「男性的」で「城郭的な雰囲気」をもつ建築を好むと語っている。 このヴァンブラの好みは、特にのちのシートン・デラヴァル(下図右)の中世の要塞のような量感の表現にも現われる。 東西両翼部も含めると、相当大きな建物群になるわけだが、各端部でタワー状に立ち上り、全体の構成に単調な感じを与えない。

ラドクリフ・キャメラシートン・デラヴァル
ロバート・ヴェンチューリは、「建築の多様性と対立性」(伊藤公文訳)の中で、何回かこの立面構成について触れている。
まず"両者共存(ボースアンド)"の項では、 “ブレニム・パレスの入口側ファザードの中央パヴィリオンの端部の柱間(ベイ)は、もうひとつの柱形に分割されていて部分的には誤ったものと言える(中央の三角破風の下のところは、 三つの柱間(ベイ)から成っているが、両端の柱間は角柱によってさらに二分されている)。そうした細分化は、二重性を招き、まとまりを損ねている。 しかし全体としてみた場合には、そうした不完全さそのものが、むしろ中央の柱間(ベイ)を強調し、複雑な構成にまとまりをもたらしている。”
また"複雑な全体(ディフィカルト・ホール)を獲得する責務"の項では、“ブレニム官とホーカム・ホールの正面を比較すると、外観上の屈曲(インフレクション)のありさまがわかる。 ホーカム・ホールの場合、中央の棟とよく似た小さな棟が両側に並び、より大きな全体が形成されている。
各棟とも破風のついたパヴィリオンで、それ自体独立している。 従って、ホークハム・ホールは、一列に並んだ三つの建物であるとも言える。
一方、ブレニム宮の方は、分離しながらも屈曲した断片を通じて、多様な全体が得られている。 中央のブロックの両端の棟は、それ自体は不完全であり、二重性を示しているが、全体の中の一部として見た時は、中央のパヴィリオンに向かって屈曲した端部となっており、 全体構成の中で、破風のついた中央部を確固としたものとするのに寄与している。中央入口部分の隅部の柱と、その上のブロークン・ペディメントも、 ともに端部の屈曲として働いており、中央を強調することになっている。そして、両端にあるパヴィリオンは、何ら屈曲していない。
その理由は、 それらが台所と厩舎であるからだろう。
ヴァンブラのこのような、対称形でありながら拡散した大きな正面を作る際の方法は、 一世紀前のジェームズ朝期の方法の継承である。”
ディフィカルト・ホールとしての全体に対する部分の寄与、凹凸、後退と突出、変化に富んだ輪郭、劇的なスカイライン。 部分の貢献については"二重の機能をもつ要素"の項で、次のように取りあげられている。
“装飾の多くは修辞的である。たとえば、リズム感をかもし出すバロック建築の付注とか、 ヴァンブラのブレニムの厨房中庭へ至る入口部分の独立した飾り柱がそうだ。
それらは、建築的には虚勢をはったものと考える。現代建築においては、修辞的であると同時に構造的でもある要素はまれである。きっとベルニーニが羨んだに違いない、 ミースの用いた修辞的なI型鋼は、例外に属するのである。”

この飾り柱は独立しているのである。このようにブレニムは、キャッスル・ハワードに比較して、部分のデザインの密度が高い。
形態の面白い非シンメトリカルな配置とテクスチュアの多様性。ヴァンブラとホークスムーアは、いわゆる「ピクチュアレスク」と呼ばれる、 建築を使って"風景"をつくり出す方法の妙手であった。

ホークスムーアは、ある意味で学究的で、古今のあらゆる手法に通じていた。イタリアに一度も行ったことがないのに、出版物によってイタリアの建築については精通していた。
城郭のようなイメージ、力動感はヴァンブラのものであったとして、ホークスムーアは、それを豊富な古典についての知識、ディテールに対する深い経験によって、 ヴァンブラのイメージした以上に実現化していったのではないだろうか。
この半世紀前につくられたベルニーニ(1598-1680)による、サン・ピエトロ大聖堂の列柱廊(1667)、そして、さらに1世紀前の ミケランジェロ(1475-1564)によるサン・ピエトロ大聖堂後部の巨大付柱(ピラスター)。これらが、ブレニムの50ft(約15m)の高さをもつ正面のコリント式の巨大オーダー、 そして翼部にみられる半分の高さのドリス式オーダーの連続するコロネードに呼応する。
ホークスムーアは、サン・ピエトロ大聖堂で行われているこうしたことを、 銅版画によって知っていた。

ローマ建築と、それに関連するすべてに対する熱烈な愛情を、ホークスムーアが受け持ち、中世の城郭、とりわけエリザベス朝やジェームズ一世朝の、 塔を備えた邸宅をはじめとする英国の魅力的な建物への強い共感を、ヴァンブラが受け持ったと言える。これら二つの要素が混合され、 さらにヴァンブラ+ホークスムーアという2人の天才の卓越した建築する力によって、"英国軍隊の無敵の栄光"という、ブレニムに与えられたテーマにピッタリと合った、 そしてまたそれ以上の建築をつくりあげたのである。

ブレニムブレニム




3.ロンドンの6つの教会

1666年のロンドン大火の後、クリストファー・レン卿らによって、多くの教会が建造されたが、1711年さらに「50の新しい教会を建造するための法令」が制定され、 ホークスムーアが教会の設計監理の仕事をする2人の監督官のうちの1人に任命された。
もう1人の監督官はこの後何回も変ったのだが、ホークスムーアの方は、死ぬまでの25年間この役目を果たした。
ホークスムーアは、その間六つの教会を建てた。ヴァンブラ+ホークスムーアの共同作業の中でホークスムーアがどれだけ重要な役割を果たしたか、 ある程度、ホークスムーア1人によるこの六つの教会を見れば推量することができる。

今は亡き巴辰一君と二人で、ある年の夏の一日をかけて、グリニッジのセント・オルフィージ教会以外の五つの教会を見て廻った。
アーキテクチュラル・デザイン誌の付録の建築マップのロンドン編を片手に、順に見て廻った。
一つずつに、二人で感激しながら次々と訪ねて行った。
途中入ったパブでは、歩き疲れてついうとうとと眠ってしまい、店員に注意されたりもした。
ほとんどの教会とも内部は荒れはてていて、見ることができなかった。内部を見ることができたのは、ブルームズベリーのセント・ジョージ教会のみである。

再びジョン・サマーソン卿に依ると、ホークスムーアのこれら六つの教会には次の三つの要素があると言う。

1.レンの影響
---修行の時代を過ごし、当然いくつかの教会を担当している。
2.ホークスムーアの病的なまでの古典への熱情
---広範囲にわたる彼のローマ建築の研究。 そして子供じみたラテン語への興味。英語で言える表現を無理矢理こじつけたようなラテン語で表現したりした。
3.ゴシック建築への回顧趣味
---ゴシックの構成を古典主義的に表現しようとしたり、 部分的に出来るだけゴシック的な要素をもってきて中世的な効果を出そうとする。 その傾向が最も表れているのが塔や尖塔部分である。 上記の50の教会の法令は、もっと長く言うと「石造あるいはその他の適切な素材でできていて、それぞれ塔または尖塔がついた、 50の新しい教会を建造するための法令」となり、 塔あるいは尖塔をつけることが最初から義務づけられていた。

50の新しい教会、とあるが実際にこの法令によって建造されたのは10ちょっとの教会であった。
その内ホークスムーアのつくった六つの教会とは、次の六つである。

 @グリニッジのセント・オルフィージ教会(1712-14)
 Aセント・ジョージ・イン・ジ・イースト教会(1714-34)
 Bライムハウスのセント・アン教会(1714-24)
 Cスピトルフィールズのクライスト・チャーチ(1714-29)
 Dセント・メリー・ウールノス教会(1716-27)
 Eブルームズベリーのセント・ジョージ教会(1716-27)

まず最初に建ったのが@グリニッジのセント・オルフィージ教会である。これは実際には見ていないのが残念だ。 非常に古典主義的でローマ的な立面をしている。
東側ファサードのポーティコは両端二本ずつの付柱(アンタ)があって、 中央に2本のドリス式の円柱が独立して立ち、その上部のアーチがペディメントの位置まで立ち上っている。
非常に力強くローマ的である。側面の窓にはホークスムーアの他の教会にも見られる不釣合に大きなキーストンが見られる。
塔はホークスムーアの案は承認されず、後にジョン・ジェイムズ(1716年からもう一人の監督官になった)によって建てられたものである。 ちょっと違った印象を受けるのはそのためである。

Aセント・ジョージ・イン・ジ・イースト教会は、Bライムハウスのセント・アン教会 そしてCスピトルフィールズのクライスト・チャーチの三つはほぼ同時期に設計が行われている。
クライスト・チャーチはこの三つの中では別系列に入るが、AとBは、平面的にも似ている。
プランを見ると、両方とも四本の柱に支持された正方形の部分を持っている。 その正方形に対応してセント・アン教会では天井に円形が描かれており、セント・ジョージ・イン・ジ・イースト教会では、 その部分は交差ヴォールトになっていて、さらにその外側に四つの螺旋階段の塔がある。
外観にもその4本の階段室が、突出しており上部で八角形のランタンになっている。
セント・アン教会では、ポーチ部分にドームが半分突出していて、平面ではそこからさらに扇状に階段が配置されており、 そのためエントランスのオーダーが扇の方向に振れてファサードに動きが出ている。 両方ともバロック的な量感と運動が外観に強く感じられる。
セント・ジョージ・イン・ジ・イースト教会 セント・アン教会セント・メリー・ウールノス教会




クライスト・チャーチは、これら六つの教会の中で、(実見したのは5つだが)最も強烈で、驚かされた教会である。
とにかくスケールが、ロンドンの通常の教会を圧倒的に凌駕しており、まずその大きさに驚かされる。
まず基壇の上に、巨大なヴェネシアン・ウインドウ(中央の広い開口部にアーチが架かり、両脇の開口部には庇のついた3連の開口部で、 セルリオの建築書に初めて見られるので、セルリアーナあるいはセルリアン・モチーフとも呼ばれる)のモチーフ、 そしてその上に壁状の立面がのっている。
そして最上部にはゴシックを思わせる尖塔がある。 タクシーや電話ボックスのサイズと比較するとよく分ると思うが、とにかく誇大妄想狂的に大きい。
実はこのクライスト・チャーチを見てからその魅力に憑りつかれ、僕はホークスムーアがすっかり好きになってしまった。
後にキャッスル・ハワードやプレニムを見たいと思ったのもクライスト・チャーチを見たからである。

内部を見ることが出来なかったので写真でみるしかないが、このクライスト・チャーチは内部も力強く運動にあふれて面白そうである。 Dセント・メリー・ウールノス教会もまた@、Aと同じように柱で囲まれた正方形が中心になっている。
3本1組のコリント式オーダーが中央の高い部分を支えており、この正方形の部分が上部が外部に突出して、半円形の高窓を形成している。
立面がまた変わっている。正面は壁状で下半分がラスティケイション(粗石積)を施されており、南立面には深く凹んだ、上下の窓があり、 北立面には、三つのニッチがある。
どちらにもやはり、通常の比例感覚より大きなホークスムーア特有のキーストンがついていて表情を引き締めている。

Eブルームズ・ベリーのセント・ジョージ教会は、六つの教会の中である意味でクライスト・チャーチの次に面白い。
またロバート・ヴェンチュリーだが、 “建築の多様性と対立性”の中でこの教会について両者共存(ボース・アンド)の項で触れている。
“ブルームズベリーのセント・ジョージ教会堂の破風のついた入口と平面の全体のかたちからは、南北軸が強く感じとれ、西側の入口および塔、東側の内陣(祭壇を含む)、 内部のバルコニーの形状などからは、それとは直交する軸が同等の比重をもって感じられる。
対立的な要素と変形された位置の故に、この教会に前後左右の異なる螺旋型平面と、 二つの対等な軸をもつギリシャ十字平面のどちらをも表現している。
特殊な敷地と方位の状況の結果、これらの対立性(コントラディクション)は、 もっと純正な構成にあってはみられない豊かさと緊張を有しているのだ。”
主入口はポーティコのある南側であるが、塔のある西側にも入口をとる必要があったとホークスムーアは判断し、東西の短い軸を礼拝の向きとして、 東側の半円部に祭壇をとった。
教区民はのちに不便を感じて1781年北側に祭壇を移したレイアウトに変更した。従ってその時西の塔の下の入口は閉鎖された。
他の例と同じようにやはり中心の正方形部分が屋根から立上って、高窓を形成している。西の塔の段状のピラミッドの形をした尖塔が、 ペディメントを抱いた列柱の上にのっている。
頂部にはジョージ一世の像がある。 もともとはこの他にライオンとユニコーンが戦っていたらしいが、のちに取り除かれた。
この尖塔部分は、モーソリウムという語の語源となったハリカルナッソスの王、マウソロスの墓の復元図を、そのままデザインの源泉にしている。
まさにホークスムーアの考古学的事物への関心を具体化したものである。
古代ローマ、クリストファー・レン、そしてゴシックを個人的なバロックの趣向で混合した、ホークスムーア独自の混成品である。

これら六つの教会からは、 ホークスムーアの知的作業としての建築をつくる作業の楽しさが伝わってくる。
クライスト・チャーチ教会 クライスト・チャーチ教会 ブルームズベリーのセント・ジョージ教会
4.キャッスル・ハワードのモーソリウム

 1712年にキャッスル・ハワードの邸館の仕事は一時中断し、カーライル伯の興味は庭園の方に移った。 まずヴァンブラによるテンプル・オブ・フォー・ザ・ウィンズ(四風亭)は、パラディオ設計の有名なヴィラ・アルメリコ(ロトンダ)がベースになっている。

ロトンダをベースにした建築は、英国にはこの他にもコリン・キャンベル設計によるミアワース(1723)、バーリントン卿による、チズウィック・ハウス(1725着工)がある。 これらのきっかけになった、パラディオの「建築四書」の英国における翻訳出版という大きな事件が、1715年に起っている。
このテンプルは結局、 1726年のヴァンブラの死の後、ホークスムーアにより完成された。

そしてその3年後、1729年には、ホークスムーアの設計によるカーライル伯と家族のための墓、 モーソリウムの建設がスタートする。ホークスムーア、68歳の時である。これもやはり「建築四書」のイタリアの先達に範をとっている。
すなわちブラマンテ設計の円形神殿テンビエットである。


この建物については、柱の間隔が狭すぎるというバーリントン卿の批判があったが、 この狭さこそがモーソリウムに、近づきがたい緊張感を与えていると、僕は感じた。 ただ何とも言えず、息を飲んだ感動の要因の一つだと思う。
内部は、ロンドンの六つの教会と同じようにドームの下の高窓(クリアストーリー)からの光が差し込んでくる。
ホークスムーアもモーソリウムの完成を見ることはできなかった。チズウィック・ハウスの階段にそっくりの階段は、バーリントン卿の友人でもあったカーライル伯の義理の息子、 ロビンソン卿によるものである。

ホークスムーアは、決して訪れることのなかった、ローマへの強い憧憬を抱き、古典主義建築のさまざまな原典を知的に逍遥しながら、 独自の力動感、量感を加味して、英国建築に一つの輝かしい時代をつくった。

キャッスル・ハワード、モーソリウム、そしてブレニム、クライスト・チャーチ、 建築をつくる喜びに溢れたこれらの建築は、英国建築史の教科書の中から、光り輝き、浮き出してくる。
四風亭 モーソリウム
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QUERINI-STAMPALIA FOUNDATION

クェリーニ・スタンパーリアの噴泉 -Carlo Scarpa(1908-1978)

手のひらの上で輝く、宝石のようなクェリーニ・スタンパーリアの中庭。
ヨーロッパの庭園の定石としての伝統的構成要素を備え、 そのうえで
スカルパの解釈と、
そしておそらく日本庭園の影響が加わったミニチュアの西洋庭園。

そしてスカルパの建築に欠かせない“水”。
線状の水の流れの行き着く先に、白大理石の、底の浅い鉢が水を
受ける。
光を反射する細長い水面の輝き、きらきらした透明な水の流れ。
水と光、水と石、水と緑のぶつかり合い。
何という数寄。

(ぱろす38 9106)










クェリーニ・スタンパーリアの噴泉